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もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

勝負師、表現者、そして地獄の釜

思いのほか時間がかかってしまいました。
羽生君について感じることは沢山あるのだけど、いざ記事にしようと思うと、書いても書いても、何かとても重要な点が決定的に欠落しているような気がしてしまいます。それだけ多面性のある選手ということなのかもしれません。って、言い訳ですが(笑)。

さて、ワタクシめ、GPFの雑感で羽生君について以下のように書きました(長いけど最初に読んでもらった方が話が繋がり易いので、敢えて転載)。
19歳直前の羽生君、やったわね。
彼はインタビューでもいろいろお話されますけれど、彼が語ろうとしない(敢えて、ではなくご自分で気付いてない か、気付いてても表現できないのかもしれない)、彼の中にある、一部の勝負師のみが持っている「鋭い刺」が、今回ほど顕著になった演技は無かったと思いま す。(羽生君がシニアデビューした年に、羽生君のことを評して「日本人には珍しく牙を持ってる選手」とコメント下さった方がいらっしゃったのだけど、ホント言い得て妙だと思うわ!)

もう鬼籍に入られた有名な棋士さん(お名前失念)が概要、「何十年もこの世界で勝負をしてきた相手に対し、わずか数年の経歴であっても、自分は絶対に勝てると思えなくては駄目だ。」と発言されていました。こういうことが出来る人って、ぬるい一般社会に生きてる人間からすれば不敵で生意気な奴と思われがちですが、一種、不思議な「偉さ」も持ってる。例えばサッカー日本代表の本田選手なんかそういう類の人だと思う。

羽生君は、GPS2戦では王者チャンさんを前にして、若気と血気に逸った頃の宮本武蔵っていうか、「ちょっと落ち着きなさい」って言いたくなる感じだった。そういう感覚もあって、中国杯の時に彼に「男になれや!」と書いたのですが(こちら)、彼は短期間かつドラスティックに「勝負の世界」の狭い階段を駆け上がっていきました。

羽生君は、今、これまでよりも圧倒的に研ぎ澄まされた「勝負の世界」にいる。これは、彼の資質(鋭い刺を持つ勝負師)を考えると、成長過程で必ず通るものだと思いますし、特にこの五輪シーズンにおいては、まさしく正しいことであり応援すべきことだと思います。


一般論として、勝負の世界に居る人やその動作には、表現の世界に居る人のそれとは別種の、鑑賞者をすくませるようなちょっと恐ろしい空気、一種の気迫がある。剣道での、つばぜり合いの隙を捉えて面を打つその瞬間に突如放出される殺気や、相手が打って来た面を竹刀で返した直後に、相手の胴を打つ(「面返し胴」ってやつですかね)際のキワキワの動作などは、分かり易い例かもしれない。これは頭脳で勝負する分野にも存在し、例えば棋士が盤上に駒を打つ時の手指の動きに異常に重みあるいはキレがあり、勝負どころであればあるほど、そこに凄まじい気迫と念が籠っていることがよくある。

もちろん表現の世界で「勝負」色がある事態が全くないのかと言えば、そんなことはない。例えばバレエのガラ公演なんかだとスターが勢揃いするから、自ずとライバル 心に火がついて、競い合うようにダンサーの演技が白熱することがあって、そりゃ~盛り上がります。でも、こういう表現の世界のそれとは、全くレベルが違う 「殺気」や「キワキワの動作」が、勝負の世界には存在する。

フィギュアスケートは、相手と対面して1対1で闘う競技じゃないけれど、こと競技会で上を目指すとなると、一種独特の鋭い勘というか、流れを作る力量みたいなものが必要な場面が時々ある。そういう時、どっぷり勝負寄りの選手というのは、1対1で闘う世界に居る勝負師と同じ気迫をまとうし、まさに「キワキワの動作」のような動きを見せる。この勝負師に特有の「殺気」だとか「キワキワな動作」に、応援する側のアドレナリンも大放出されて大興奮、ってことは多いと思う。けれど、勝負師カラーがあまりに露骨で分かり易いものだと、逆に苦手とする鑑賞者が存在するのもまた事実でしょう。

羽生君は、上のGPF雑感で書いた通り、短期間かつドラスティックに「勝負道」とも言うべき狭い階段を駆け上がっていきました。鑑賞者の中には、シャランと鳴っていた羽生君の鈴の音が年齢とともに無くなることは我慢しても、ここまで勝負師カラーたっぷりの羽生君は何だかガツガツし過ぎて苦手・・・と思われる方がいらっしゃるかもしれない。

そのお気持ちも分からんでもないんですが、今は放置すべし、と私は思う。
彼は、GPF雑感で書いたとおり「鋭い刺を持つ勝負師」で勝負師としても稀有な才能を持っている人ですが、一方で本来的に地力の非常に強い憑依系の表現者です(この2つがともに高度なレベルで両立しているって珍しいかもしれないですね)。なので、勝負師として勝負の世界にある「闇のような深淵」と「その先にある光明」に辿りついた時、彼は「表現の世界」における高みを望むと思う。

ここに「闇のような深淵」とは何か。
簡単にいえば、ある種の狂気かもしれない。もちろん、表現の世界にも狂気はある。でも、勝負の世界における狂気って、それとは異なる(というか一線を越えている)ちょっとした恐ろしさがあると思う。一例だけど、当人からそれ以外の事項に対する興味や、人としてのバランスを保つための思考・判断能力、そこまで大げさじゃなくても一般人としてのごく普通の社会常識を、ひどく弱めてしまうことがある。将棋の羽生善治さん(奇しくも苗字が羽生君と同じ漢字だわ。読み方違うケド)なんか、今では普通の優しげな中年オヤジになったけど、20代で棋界に旋風を巻き起こし・・・というより暴れまくってた頃は、まさにそんな狂気を感じさせたものでした。(アイドルと結婚されると聞いたときは本当にほっとした。「普通の男の人と変わらないところが、まだ、ちゃんとあった」って)

ちなみに、この「闇のような深淵」にある狂気が、ちょっと逸れた方向に突き詰められて行くと、例の大王製紙元会長の井川意高受刑囚 (特別背任で服役中)の自叙伝「熔ける」(双葉社)に詳細に書かれてある「博打」に内在する地獄と紙一重になると、私は感じている。井川さん・・・あの極めて賢かった(企業人としての才覚と力量は、客観的に見ても見事だった)博徒は、こう書く。
カジノのテーブルについた瞬間、私の脳内には、アドレナリンとドーパミンが噴出する。勝った時の高揚感もさることながら、負けたときの悔しさと、次の瞬間に湧き立ってくる「次は勝ってやる」という闘争心がまた妙な快楽を生む。だから、勝っても負けてもやめられないのだ。地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦がれるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う。(「熔ける」p252)
恐ろしい・・・。「地獄の釜の蓋が開く」って言葉、私は「お盆とお正月は休みましょうキャンペーン」としか捉えてなかったけど、こういう考え方もありましたか。自分の足元で地獄の釜の蓋が開いていて、一歩間違えれば、閻魔様の審問なしに真っ逆さまに罪人をぐつぐつ煮ている窯の中に落ちてしまう。それが分かっていても止められないどころか、それがあるからこそ生じる感覚すらも快感になっていく。ドーピングがなくならないのは、勝った時の報酬や名誉が欲しいという単純な心理だけじゃなく、奥底にこういう感覚があるからかもしれない。

話を元に戻して、では「闇のような深淵」の先にある「光明」とは何か。
それは、その道の究極の姿としての「美しさ」だと、私は思う。
勝負する競技・中味が何であれ、その道その道で「美しさ」というのものは確実に存在する。体操の内村さんが「美しい体操」に、将棋の羽生さんが「美しい将棋」(相手が悪手を打つと自分が勝ちに近付くにも拘わらず、美しくないという理由で不機嫌になるのは有名な話)に、それぞれ固執するのは、彼らがそれらをその道の究極の姿と考えているからだと思う。

勝ちに拘る勝負師の姿勢は、人を研究熱心にさせ、何より技術を磨き極度に正確にする。だから、勝負の経験を経れば経るほど、一種の美学を持つ勝負師は多い。けれど、この究極の姿である美しさを求める境地っていうのは、どうも勝負道を通るだけでなく、「闇のような深淵」を覗き見たような極一部の人にしか到達できないように見える。こういうタイプの人にしか、究極の姿としての「美しさ」を明確に把握することができないのかもしれない。そして面白いことに、勝負にこだわるが故に生じていた、ある種の狂気は、この究極の「美しさ」を求める段階に至った場合には、少しこなれてくるというか、確実に薄まってくる。

フィギュアスケートという特殊なスポーツにおいては、この究極の姿としての「美しさ」は、表現の世界と重なる部分が大きいように思う。そして、羽生君は、大きな怪我さえしなければ、近い将来この究極の姿を掴むと思う。仮にそれがおぼろげなものであっても、彼の表現の地力に照らせば爆発的な表現欲求が起こるのは必然。

羽生君は、表現の世界に戻ってくる・・・というか、違うルートを通って、奇しくも表現の世界の頂点を目指す地点に到達する、と思う。今、彼がそのど真ん中に居る「圧倒的に研ぎ澄まされた勝負の世界」は、最終的に彼が究極の「美しさ」を目指す地点に至るまでの道程。

彼の成長が本当に楽しみです。

さあ、今から団体戦の男子SP、見るわ!
明日の朝は今週で一番早く起きなきゃいけないので、つらいけど(笑)。




by Koharu-annex | 2014-02-07 00:38 | フィギュアスケート男子