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もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

全ての感情を「泣き」で表現する男

表題は、故ナンシー関女史が、ファッションデザイナーのごあきうえ氏を評して書かれた名言。

ここ数年、このナンシーさんの名文で私が思い浮かべるのは、ごあきうえ氏ではなく。
・・・そう、われらが織田君であります。愛をこめて、以下「信ちゃん」と呼ばせて頂きます。

信ちゃんは、私がもっとも評価する「自分ではない何者か」を天然で表現する能力は、おそらく皆無です。また、後天的に「自分ではない何者か」を表現する「コツ」を習得することも、彼のその手の方面に対する不器用さに照らすと、難しいと思う。(なお、これらの能力については、過去のこちらの記事をご参照ください。信ちゃんは、この過去記事における「3」タイプだと思う)

ということは、彼の場合、「自分自身」しか表現できないことを前提にしなければならない。ただ、そういう人って案外いるので(当然アマチュアには多い)、この点を取り立てて問題視する必要はない。
信ちゃんについて、真に検討しなくてはいけないのは、以下の2点だと思う。


(1)表現すべき「自分自身」の確定
(2)どんなことをしても「何かが足りない」印象が生じる理由とその対策


(2)の最も大きな理由は、(1)の「自分自身」の確定が未だなされていないことだと思うので、今回の記事ではまず(1)を検討します。ついでに演目も検討しちゃいます。(2)については、特に表現手段を中心に、あらためて後日別の記事をアップしますね。

では、(1)表現すべき「自分自身」の確定、から。
信ちゃんは、表現の基礎となる肝心の「自分自身」にすごく迷いと不安があるように見受けられる。

「ボクってこれでいいの?」、「ボクってどんな人間なの?」、「こんなボクでみんなは評価してくれるの?」という類の、迷いや不安が書かれた吹き出しを、信ちゃんは背中にしょって滑ってる。この吹き出し、メンタル面の調子の良し悪しによって大きさは変われど、常に彼につきまとい時に彼を押しつぶす、まさに子泣き爺のような存在。

信ちゃん・・・
早く、その子泣き爺、どっかの底なし沼に沈めてしまえ。

そのためには、どんなに自分の思い描くものと離れていても、ちゃんと「自分自身」というものを客観的に認識しなくちゃいけない。それはつらい作業かもしれないけど、表現者としてやってくためには、やらなきゃいけない。

鑑賞者サイドから見て、信ちゃんというのは、面白いことやくだらないことが大好きで、優柔不断な優しさがあって、人懐っこくて、親しみやすい、クラスに1人くらいいそうな普通の男の子です。ついでにいうと、不器用で、忘れ物が多くて、おっちょこちょいで、ドジで、成長しても世渡り下手だろうなあと思わせるところがある。地元の商店街が似合って、そこのおじちゃん・おばちゃんに可愛がられて、いつもコロッケなんかをおまけしてもらえるタイプ(肉なしの一番安いやつだけど)。

要するに、彼は、「愛すべき小市民」です。
目の前に起こる小さな出来事に幸せを感じたり一喜一憂する、世界中どこの国にでもいるけど決して目立たない、平和で平凡な小市民です。

多くの表現者が、「自分にしかない何か特別なもの」を探そうとする。でも、特別じゃない「ごく普通なもの」に目を向ける方法があることを忘れちゃいけない。なぜなら、「ごく普通なもの」をごくナチュラルに表現できることにも大きな存在意義があって、それはその表現者の得難い特徴になり得るからです。たとえば、バレエにおいても、立ってるだけで王子様オーラばりばりの人が、町や村などの市井の人を踊ると(そういうのが主役のバレエも多いんです)、妙に存在感あり過ぎて風景から浮いちゃうことがある。だから、そういう役柄には、オーラが突出していない「普通」の要素があるダンサーの方が向いていてるんです。

ちょっと脱線したのでついでに書いちゃうけど、表現の天才がいる場合、周りの表現者は多くの場合つぶれます。つぶれ方は大きく分けて3種類。1つは「模倣」というつぶれ方。2つめは「自分を見失う」というつぶれ方。最後は「脱落」というつぶれ方。最後のつぶれ方が、数としては一番多いと思う。人間って本当に弱いから。

だから、表現の天才・高橋選手があんなにも身近にいながら、信ちゃんが脱落しないでいるのは、本っ当ぉにえらい。また、安易に模倣に走ってないのもえらい。でも、信ちゃんの「自分自身」のぐらぐらさ加減は、2番目のつぶれ方の入り口付近をうろうろしているのではないかと、私は危惧してる。高橋選手の存在に惑わされて、「自分にしかない何か特別なもの」を探す旅に出たりしちゃ、絶対にダメです。

ということで、地味でえーっ?って感じかもしれないだろうけど、私は、信ちゃんにはごくごく普通の「愛すべき小市民」である「自分自身」をちゃんと受け入れて欲しいと思っています。
そして、信ちゃんが無事に、自分は「愛すべき小市民」であると開き直れたのであれば、この特徴をもっと前面かつ全面に出して欲しい。

ただ、それを「おふざけ振付」の形で出すのは控えめにした方がいい。
信ちゃんの「おふざけ」な側面は、脚光が当てられているけれども、信ちゃんにとっては諸刃の剣です。

彼が完遂する「おふざけ振付」を取り上げて、「エンターテイナー」とか「表現力がある」と評されていることは知っています。だけど、私は、そういうぬるま湯な評価に満足すべきではないと思ってます。なぜなら、信ちゃんの「おふざけ」な側面には、微妙な気の弱さと感情過多を覆い隠そうとする、本能みたいなものが感じられるからです。

一般論として、表現者の有する「おふざけ」な側面にフォーカスするのが悪いわけではありません。だけど、信ちゃんの場合、その裏にある「気の弱さと感情過多」に何ら対策を講じないまま、「おふざけ」でフォローし続けるのは賛成できない。その方法は回を重ねるほど無理が生じる種類のもので、一定割合の鑑賞者に「半分痛い」という印象しか与えないからです。

なので、「おふざけ」側面が信ちゃんの本質の一部であることは否定しないけれど、「気の弱さと感情過多」をある程度コントロールできるようになるまで、前面に押し出すことは控えた方がいい。
もちろん、控えたとしても、「おふざけ」側面が本質の一部である以上、何かの拍子に、あるいはそこはかとなく、「おふざけ」感は彼の演技から出ると思う。それはそれでいい。
ここで控えるべきといっているのは、敢えて行われる「おふざけ振付」のことです。


以上の考察を前提に、ここで演目を検討したいと思いまーす!

信ちゃんは「自分自身」しか表現できませんから、演目についても信ちゃんの本質である「愛すべき小市民」と、非常に近しい無理がないものを選ぶ必要があります。

そうそう、「愛すべき小市民」であることには、もう1つ利点があります。
信ちゃんの体の小ささを、最大限生かせる、ということです。
体のでかい表現者の「小市民」の演技に、かなり違和感があることを想像してもらえば(たとえばライサチェクさんを想像してみて下さい・・・)、良く分かると思います。

ここまで読んだ皆さんの中には、今期の「チャップリン」はぴったりと考える人がいるかもしれない。
確かに、チャップリンが映画の中で多く演じているトランプさん(The Little Tramp)は、多くの場合、市井の人で、体も小さくて、とっても面白い。

だけど、「チャップリン」を信ちゃんに演じさせるのは、あまりにも無謀です。誰が決めたのか知りませんが、私があと15年若くて血の気が多かった頃ならば、ちゃぶ台ひっくり返しながら「つぶす気か!」と叫んじゃうレベルのひどい仕打ちです。

チャップリンには「毒」があるんです。なぜなら、チャップリンは実は「怒れる男」だからです。
世の中を時には斜めや裏からも凝視し、「笑い」という強烈な武器で批判している、というのが彼の真実の姿です。大きな悲しみに裏打ちされた、ゆるぎない「怒り」から生じる、究極の「反骨精神」と「ヒューマニズム」がチャップリンの本質です。
チャップリンのもつ哀愁は、この他の追随を許さないほどに強い「反骨精神」と「ヒューマニズム」がもたらす孤高の孤独からくるものです。

これは、信ちゃんのほとんど対極に位置するものといっていい。
つまり、信ちゃんの個性とチャップリンの個性は、実は、一ミリも重ならない。

信ちゃんがいつも「面白い」から、そしてチャップリンが「喜劇王」って言われているからという理由だけで、そして「周りの笑いを取る」というあまりにも浅薄な共通項だけで、チャップリンを選んだとしたら、考えなしにもほどがある。
もし、そうでなはなくて、信ちゃんがチャップリンの本質に迫れると考えていたのなら、それははっきり言って、信ちゃんを買いかぶりすぎて、逆につぶす方向に導いている。
また、もし、万が一、これが信ちゃんの発案ならば・・・どっかの寺で内観してこい!

ちなみに、私が、チャップリンを演じられる人を挙げるなら、プルシェンコさんですね。
彼とチャップリンは揺ぎ無い信念を有する点で、完全に一致します。

という次第で。
信ちゃんには、素直な「愛すべき小市民」系でいきましょう、という話です。
そうすると、過去の演目にある「セビリアの理髪師」は◎(二重丸)です。
なので、セビリア・・・の続きであるオペラ「フィガロの結婚」も◎。

私の、超一押しは、映画ライフ・イズ・ビューティフルのグイドです。
(メイン音楽はこちら。)

第二次世界大戦における市井のユダヤ人の愛と悲しい運命を描いた名作だけど、そんなこと信ちゃんは一切考えなくていい。
ひたすら、妻と子供への愛と、家族の小さな幸せだけを、想って滑ればいい(主人公のグイドがまさにそうなので)。

ただ、信ちゃんは表現力の地力(表現に乗っけられる情感のパワーの強弱、というくらいの意味で使ってます)が、生来的に強いタイプではないので、赤ちゃんができてパパ感情が増幅された後に、その増幅されたパパ感情をもって演じる方が出来がいいと思う。
できれば、つかまり立ちなどができるくらいの可愛い姿を見た後の方が良い。
だから、来シーズンじゃなくて、その次だな。

ところで、「愛すべき小市民」系で、SP、LP、EXの全てを揃えるのは、無理ですよね。
そこで、私がお勧めしたいのが、「愛すべき小市民」系はLPにして、SPにおいてはキャラクターダンサーの道を進むことです。

私が考えたのは、以下の2つ。

● 「夏の夜の夢」の妖精パック
● 「海賊」の奴隷アリ

いずれもバレエ作品だけど、高い技術が必要で、主役よりも印象が残る役柄です。
そして、いずれも王様や海賊に仕える身分の役柄なので、技術は高いけど、控えめな雰囲気で、かつ体が小さめのダンサーの方が合う。
「控えめな雰囲気」というところがポイントで、ここが信ちゃんの小市民と共通する。

パックについては衣装が問題だな(つたが絡まった裸体)。
メンデルスゾーンの音楽についても、私の感覚では使える部分は2つの主題くらいしかないので工夫が必要。ただ、ラストに、メンデルスゾーンの有名な結婚行進曲が入っているんですよ~~!ストレートラインでどうぞ~~~
なーんて、もちろん、信ちゃんが結婚行進曲で演技するなんてこと、照れて失敗を呼ぶので有り得ない。だけど、私のはなむけの言葉です。迷惑だろうが受け取ってクダサイ。

アリは、バレエの衣装は上半身が裸なので、こちらも工夫が必要でしょうね。
ただ、音楽は元気が良いので、そのまま使用してもよいのではないでしょうか。体力がもてばですが。

ではでは、(2)どんなことをしても「何かが足りない」印象が生じる理由とその対策、については追って後日ということで。
by koharu-annex | 2010-04-29 22:26 | フィギュアスケート男子