もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

<   2010年 05月 ( 12 )   > この月の画像一覧

後半に書いている真央選手に合いそうな演目について、青字部分を加筆しました。

前回の記事の最後にお願いした真央選手の「表現力」に関する、過去の論評や解説について、たくさんのコメントをありがとうございました。

どれも有益な情報で、大変勉強になるとともに、今回の考えをまとめるのにとても役立ちました。皆様、ご協力誠にありがとうございました。追って個別にコメント欄で返信させて頂きます。
(いや~実は、昨日、ジムでトレーニングし過ぎたせいで、ひどい筋肉痛でPC打つのもちょっとつらいのです。。。トレーニング後のストレッチの際、後ろに「ゴリさん」(ガレッジセール)がいらっしゃったらしくて、ジム友が後でこっそり教えてくれたのですが、「え?太陽にほえろ?」(竜雷太氏)と答えて、友を絶句させるほど脳も疲弊・・・)

さて。
音楽にあわせた身体表現って、演劇的な演目か否か、という観点から分類することが出来ます。
演劇的でない演目の主なものは、音楽的な演目です。これらを簡単に説明すると以下のようになります。

演劇的な演目」 ・・・バレエで言うと物語バレエですね。全幕ものは全てここに入ります。

音楽的な演目」 ・・・バレエにおける、明確なストーリーがないコンテンポラリー作品の殆どはこれに入ります。
    「音楽的な演目」は、音楽と表現者の主従関係で、だいたい次の3つくらいに分類できる。
     (1)音楽が主役
         「音楽を視覚化」した、といわれる類型はここに入る。
         表現者の個性はむしろ消して、音楽と寄り添い、音楽に同化させる。
     (2)表現者と音楽が同格
         表現者が音楽に新たに別の旋律を加え、あたかも二重奏の様相を呈する。
     (3)表現者が主役
         表現者の個性を前面かつ全面に出し、音楽を利用して、ある世界観を表現。


ここで、押さえておくべきポイントは、4つあります。

1つ目は、「演劇的な演目」と「音楽的な演目」では、目指す表現が全く異なる、ということです。
なので、その演目が「音楽的な演目」なのに、「演劇的な演目」における表現(そしてその表現からもたらされる感動)を求めるのは、そもそも無理な話です。世の中には、ここが分かっていない人が、ものすごく多い。

2つ目は、多くの人々は、「音楽的な演目」よりも、「演劇的な演目」の表現の方が好き、という事実です。
どのバレエ団においても、「演劇的な演目」の方がチケットの売上げが圧倒的に良いのは、このせいです。別ジャンルだけど、演劇的な「オペラ」「ミュージカル」という形式の方が、オペラ歌手やミュージカル女優によるリサイタルやコンサートよりも人気がある、ということもこの表れかな、と。
私は、バレエ好きの中でも、比較的、「音楽的な演目」も好きなタイプだと思いますが、残りの人生で観られるバレエの類型を選択しなければならないとしたら、迷わず「演劇的な演目」を選びます。

3つ目は、「演劇的な演目」の感想は素人でも雄弁に表現できるけれど、「音楽的な演目」の感想を文章で表現することは、プロですら非常に難しい、という事実です。
私も、バレエのレビューで、露骨にその傾向があります(笑)。「音楽的な演目」の感想を具体的に書こうとすると、ものすごく哲学的になっちゃって「誰も読まんわ」みたいな文章になるか、感想を書いている私自身の内面を書いたような、こっ恥ずかしい文章になるか、どっちかですわ。だから、「良かった」とか「素晴らしかった」とか、表面的な、通り一遍の文章で、さらっと終わらせることが多い。
プロの舞台レビューをみても、哲学的、内省的、あるいは文学的になり過ぎて一般人にはチンプンカンプン、という傾向はあると思いますね。そして、チンプンカンプンであるがために、ますます一般人が離れていくという、レビュアーが意図しない恐怖の悪循環がそこに。

4つ目は、演劇的な演目においては、表現者の個性がその「役」と違和感がない場合は、「演劇的要素」に助けてもらえることが多々ある(=簡単に「表現力」を評価してもらえる)、という事実です。特に表現の地力が小さい人は、その傾向が顕著です。
ちなみに、バレエダンサーのデビューは、物語バレエからです。いきなり筋なしのコンテンポラリーから入ることは殆どない。演劇的な演目では、「役」のキャラクターで表現の方向性を固定してもらえる上、お芝居のマイムという表現手段を加えることができるから表現力の底上げができる、さらに、ちょっとした動作、あまつさえ意図しない表情やしぐさまでも、その「役」に結びつけた「表現」として捉えてもらえる等々、何かとお得なんですわ。

と、ここまで書いたら、私が言わんとしていることについて、皆様、既にほぼ理解されたかと(笑)。

そう、真央ちゃんの過去の演目です。
シニアに完全に移行(という言い方でOK?)してからは、彼女には、「演劇的な演目」が皆無です。
彼女の演目は、「音楽的な演目」の中でも、彼女自身を主役にもってきた(2)あるいは(3)しか、やってません。(私の感覚では、(1)はないです。そもそもフィギュアでは、敢えて(1)をやる必要はありませんしね。)

私は、これは、ものすごく理解できる。彼女、逸材だもの。

以前、表現力に特化して考える~真央ちゃんの特異性という記事で書いたように、彼女の「自己」って、非常に壮大です。
なので、「演劇的な演目」で、彼女の表現に「役」という付加価値をつけたり、底上げをする必要はない。
しかも、下手に「演劇的な演目」を選択すると、演技をその「役」に閉じ込めてしまうことになり、彼女自身の全てを出すことができない。
そんなもったいないこと、振付家やコーチは、ゼッタイに選択しない、「真央自身」を全面に出して勝負したい、と思うだろうと、ワタクシ、勝手に想像する次第。

ところで、私は、上記でも引いた、表現力に特化して考える~真央ちゃんの特異性という記事の最後に、真央ちゃんが表現力が劣っていると言われているならば、考えられる理由は「技術が高い」ことにあることを指摘し、バレエの世界でも一般的に跳びぬけて技術の高い人はその有する表現力が過小評価されてしまう、ということを書きました。

私は、今でも、この「技術の高さによる表現力の過小評価」が、「真央ちゃんの表現力は低い」とされている一番の理由だと思っています。

ただ、こと「表現力」を世間にどう評価してもらえるか、好評価であったとしても、どのような言葉で評価してもらえるか、という観点から考えた場合、上で述べた勝負の仕方(演目の選択)が裏目に出たかも、とも思います。

あぁ、それと、「子供っぽい」という評価は、「くるみ割り」を引きずっているか、そうでないなら、クラシックな「お行儀の良い表現」を「子供っぽい」という言い方で揶揄しているかどちらかでしょうね。そういう方々は、おそらく、バレエのことも、「優等生っぽくて退屈」とか、「型にはまって面白くない」とか、そういうタイプの批判をされるのだと思います。それはそれとして、ある一つの見方である、と認識しておけばいいだけの話ですわね。

いずれにしても、真央選手の「表現力」に対する世間の評価は、「演劇的な演目」を選択することによって、かなり好転する可能性が高いと思います。

もちろん、私は、大衆迎合的に、「演劇的な演目」を選択すればよい、と考えているわけではありません。
正直、鑑賞者としては、あれだけ確立した「自我」の土壌の上に乗せられる、演劇的な演技、というものに、大変に興味があるんです。
しつこく私が引退シーズンだったら良かったのに・・・と言い続けている、集大成感漂う、「鐘」という演目を世界選手権でやり遂げた以上、「音楽的な演目」にこだわる必要は、もはやないとも思いますし。そういう意味では、違う分野に踏み出すには、良い機会なのではないか、と。

真央選手は、これまで「演劇的な演目」をやってないし、そもそも彼女は本来的には役者タイプではありませんから、トップスケーターとしての面目躍如!な、演劇的な演技をするためには、それなりの訓練と、コツの習得が必要になると思います。

が、吸収力が高そうな彼女のこと、そこは大丈夫ではないでしょうかね。
まあ、ぶっちゃけると、タラソワさんに、「恋をしなさい。」と言われていたそうですが、その通りですよ。片思いでもいいから、切ない想いの1つや2つ経験すれば、おそらくあっという間ですよ(たぶん)。

具体的には・・・
コメント頂いた方からの情報によると、実現不能のようですが、ジュリエットは、今でも私の一押し。
これは、チャイコフスキーじゃなくて、プロコフィエフの方がお勧めでございます。

それが無理なら・・・椿姫かな。美しい高級娼婦だけど、高潔なところと、深い慈愛がある。これは彼女の個性と重なりますから。
こちらは、オペラのヴェルディじゃなくて、バレエの「椿姫」で使われているショパンの方ね~。
バレエの「椿姫」には、リストのピアノソナタを使ったものや(アシュトン版「マルグリットとアルマン」)、ベルリオーズを使ったもの(牧阿佐美版)などもあるのですが、ここはショパンで。


白鳥、というご提案も頂いたのですが、これは「演劇的な演目」を数演目こなして、満を持してやって頂ければ、と。
白鳥はサンサーンスの瀕死の白鳥も合わないわけじゃないけど、真央女史にやって頂くのであれば、やっぱりチャイコフスキーでしょ。

と言いながら、私は、「!!…そうきたか~」とか、「こりゃ、一本取られた!!(ペシッ)」と思ちゃうような演目も期待してたりします(笑)。

ここは、いろいろ皆様のご意見があると思うので、コメントまってまーす。

それじゃ、おやすみなさーい!
新しい1週間、また頑張りましょーー
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by koharu-annex | 2010-05-31 01:38 | フィギュアスケート女子

さわりに「月の光」

5月26日午前0時23分、赤字を加筆しました。

私が、真央ちゃんの音楽性に惹かれたのは、ドビュッシーのベルガマスク組曲の「月の光」です(2008-2009のSP)。

真央ちゃんの演目では、確かオーケストラにアレンジされたものを利用していたと思うけど、皆さんご存知のとおり元はピアノ曲。ピアノをある程度やれば、やる(やらされる?)曲ですが、一応、譜面の最初の部分をご紹介。

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この曲、演奏するに当たって、ピアノの技術的には高度なものはないし、とにかく耳慣れしているのでとっつきやすい。

また、最初から最後まで8分の9拍子。つまり、曲を通してずっと3拍子系だから、拍子が取りやすい部類に入ると思うかもしれない。
でも、実は、この曲、音楽的なセンスが普通あるいはそれ以下の人間にとっては、テンポ感や、リズム感が崩れやすいんですわ。

一般的には、リズムが崩れやすいのは8分の9拍子なのに2連符(3小節目参照)があるためだとか、テンポが崩れやすいのはテンポの指定が途中である程度自由があるものに変わったりして(上ではまだ出てきません)、テンポが揺れるせい、などと言われたりしています。

が、私は、おそらく最も大きな理由は、「メロディの雰囲気に流されてだら~っとしちゃう。」からだと思う(笑)。私自身がそうでした。ははは。まあ、私は音楽性低いデスから。

そういう「雰囲気に流される」っていうのは、楽器演奏だけでなく、舞踊にも確実にある。どのようなジャンルの舞踊でも、いろんな曲調で踊った経験のある方はお分かり頂けるのではないかと。

私はこの経験があったので、真央ちゃんが雰囲気にだら~っと流される箇所が「一瞬もなく」、きちんとテンポとリズムを正確に感じながら踊っているのを見て、非常に惹かれたわけであります。

この話はここまで。
本題はここから。

ってところで、次回にさせて頂きたく。すんませんな~

コメントへのご返信も遅れてすみません。ちゃーんと読んでます。
で、頂いたコメントを拝読していて、ちょっと考えちゃったことがあって。。。
皆様にちょっとご協力をば仰ぎたいのです。

真央ちゃんの表現力って・・・・一体、世間ではどう言われて来たのですか?

私、2005~2007年の約3年、旦那の都合で海外に行っていたので、その期間言われていたことは全く知らないのであるよ。
しかも、帰国してからも、競技の映像は見ることはあっても解説とか適当にしか聞いてないことが多いし、雑誌とか新聞とかの記事も、特に目を通してないので、その手の情報は存じ上げないのです。

なので、「好き嫌い」の類の話ではなく、主にマスコミ等で、論評とか解説として、どういう風に言われてきたのか、教えて頂きたいと思うのです。
★すみません。動画の解説は、私の方でも把握するよう努力します。なので、私が自力で把握できない、過去の新聞・雑誌等における論評や解説をご記憶の方がいらっしゃたら、教えて下さいませ。

よろしくお願いいたします。
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by koharu-annex | 2010-05-25 23:34 | フィギュアスケート女子
中野さんの記事にかこつけて(?)、友から真央ちゃんの音楽表現についてメールがありました。
あと、同じく中野さんの記事をアップした際、真央ちゃんに言及されたコメントをいくつか頂いております。
かつ、私の書き方のせいで、若干、誤解を与えてしまったかなと思われるコメントも頂きました。

なので、まとめてクリアにしておきたく。

中野さんの記事の最終的な目標は、「火の鳥」の拍子取りが自前でできない私に、身体で拍子を取ってくれて、この楽曲の本当の姿を分からせてくれた事に対する、中野さんへの御礼コメントを導くことでした。

なので、表現者の有する「音楽に対する様々なセンス」のうち、特別に「拍子のカウント能力」にフォーカスして書きました。
そもそも、私は、拍子をちゃんとカウントできる、というのは特にバレエにおける「音楽性」と呼ばれるものの最も基本であり、バレエにおいて「音楽をよく表現している」ことの根本にはこの拍子カウントの正確性がある、と考えています。そして、中野さんがクラシックバレエの楽曲をよく使用されていることもあって、その視点から、中野さんを褒めて、且つお礼が言いたかったので、「拍子のカウント能力」にフォーカスしました。

しかし、「拍子のカウントができる」というだけで、「音楽を表現」できるかといえば、当然、そうではないです。
洋の東西を問わず、音楽つきの身体表現は、音楽の三要素のうちリズム、メロディ、そしてこの2つに密接に関連する、拍子、大小のフレーズ、音の強弱のほか、三要素の最後の要素であるハーモニーに関連する音の響きや音色、これら全てから構成される音楽の「世界観」を、全て意識して表そうとします。

なので、これら全てを完璧に理解して、それを完璧に身体表現に変換できる、というのがベストです。
もちろん、選手それぞれ、個々の要素へのセンスには凸凹がある。また、演目や振付によっても、上記の要素のうちいくつかを意図的あるいは仕方なく無視する、ということもあるでしょう。しかし、少なくともプロのダンサーや、アマチュアでもトップの方々が、能力的に特定の要素に対するセンスがゼロ、などということは有り得ないと思います。

なので、中野さんも他の選手も、拍子カウント能力や他の要素への能力全てを、当然にお持ちだと思っていい。あるのは、その能力のレベルの高低差だけです。
そして、中野さんの「火の鳥」は、このうち「拍子」に対する能力が高い、ということが良く分かる演目だった、ということです。もちろん、中野さんだって、「火の鳥」において、「拍子のカウント」だけで音楽を表現していたわけではありません。

中野さんの記事のせいで、上記に関連する誤解を招いたとしたら、言葉が足りませんでした。申し訳ないです。


さて、真央ちゃんですなぁ。
彼女は、拍子取りセンス(Aの能力)も音楽に対する他のセンスも比較的高いと思います。今更言うまでもないですが。私が、おぉこれは!と思ったのは、ドビュッシーのベルガマスク組曲の「月の光」のときですね。

ただ、本来「音楽性」って身体表現ではマイナーな美点ですから、一般論として、最初に褒められる点ではないですよね。しかも、真央ちゃんて、音楽に対するセンスのほかに、とても美点の多い表現者です。

なので、個人的な特別事情があった中野さんの音楽性は別として、「表現力」が過小評価されてる真央ちゃんに関することといえども、「音楽に対するセンス」だけ取り上げるのは、あまりにニッチ・・・という気がします。

ということで、次回になりますが、真央ちゃんのこれまでの「音楽的な演目」に対する小さな考察と、これからの「演劇的演目」の可能性について書きたいと思います。
(実は、この点については、真央ちゃんの記事のコメント欄に、ひっそりコメント下さる方々とまったりお話ししているのでした。笑)
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by koharu-annex | 2010-05-24 12:54 | フィギュアスケート女子
東京バレエ団創立45周年記念公演ファイナル 東京バレエ団初演 「オネーギン」(全3幕)
2010年5月15日(土)午後6時~ @東京文化会館

振付: ジョン・クランコ
音楽: チャイコフスキー
編曲: クルト=ハインツ・シュトルツェ
原作: プーシキンの韻文小説「エフゲニー・オネーギン」

【出演】
オネーギン: 木村和夫
タチヤーナ: 斎藤友佳里
レンスキー: 井上良太
オリガ: 高村順子
ラーリナ夫人: 矢島まい
乳母: 坂井直子
グレーミン公爵: 平野玲

指揮: ジェームズ・タグル
演奏: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


1幕の群舞で自然に拍手が沸きあがる有名な箇所、すなわち、それぞれ男性にサポートされた女性が一列に並んで跳躍を繰り返しながら舞台上を斜めに横切るところ。
一昨年のシュツットガルト・バレエ団(「オネーギン」の本家)の公演時よりも、音楽のテンポが少し早い?跳躍が若干、急ぎ足(文字通りですな)になってたような気が。
まあ、シュツットガルトの整然とした跳躍のときよりも、元気良くて街娘的な感じはありました。
ただ、女性ダンサー達のスカートが太ももの上のまでお乱れ気味になるところが、なんともはや。

オリガの高村さんは、回転技がちょっと不得意なんですね。回転技に入る時、顔が素に戻ることがある。こういうのって本当に一瞬なんだけど、案外目立つので、ちょっと気をつけた方がいいのではなかろうか。

レンスキーの井上さんは、朴訥&人の良さ、そして若さゆえの暴走というのは出てたと思う。
惜しむらくは、ロマンチストな詩人というのが足りないところ。

オネーギンの木村さんを観て、「オネーギン」って難しい役なんだな、としみじみ実感。
1幕で登場した木村さん、「ご…ご愁傷様です、経営されてた会社が倒産したんで?」、と言いたくなる雰囲気。
基本、真面目で品があって、地に足付けて社会生活を営んでいる常識人のような木村さん。都会的で優雅で、社交界で人気があって、でも超~傲慢で、しかも何故だかとーっても厭世的、というオネーギン像からは遠い、というのが正直なところ。

どうすんだろーって思いつつ、2幕。
2幕の木村さんは、「信念を通したら、左遷された高級官僚」、になってた。で、その高級官僚は、パーティーに呼ばれて、合理的にラブレターを処理したと思ったら、やけになって今までやったことがないおバカな方向にはじけちゃうのでした。その後、決闘が終わって、ようやく元高級官僚らしい真面目な顔に戻って、逃走しちゃうのでした。。。

3幕の木村さんは、真面目がアダになったストーカーのよう・・・だけど、思い込みが激しいところ、放浪に疲れて少しうらぶれているところ、運命に翻弄され雷に打たれたようにタチヤーナに爆発的に恋慕の情を抱いちゃうところ・・・これまでの中で、最も「オネーギン」だよ! あぁ、良かった。
・・・でも、ほとんど斎藤さんしか見てなかったっす。スミマセン。。。

さて、斎藤さん。
1989年に、ベジャールが東京バレエ団団長の佐々木さんに耳打ちしたという、「斎藤はタチヤーナの手紙のPDDを踊るべきだ」との言葉から、なんと21年。
その間、タチヤーナを踊る機会が浮上しては泡のように消え、ようやくオーディションに合格した上での今回のタチヤーナ役。東京バレエ団が何度も繰り返した事前広告もすごかったけど、それ以上にすごかったのが斎藤さんの気合。

1幕の寝そべって本を読んでいる登場シーンからしばらくの間、そんなに動きがあるシーンじゃないんだけど、おぉ、何だか緊張感漂ってるのは気のせいかい、斎藤さん、という感じでありました。

鏡のPDD、初恋に高熱出してる若いタチヤーナの妄想爆裂さ加減がよく出ていました。特にリフトされながら足を旋回させるところはスピードに乗っていて、見ごたえあり。

しかし、ラブレターを書く勢いがすご過ぎないかしらっ!?
3回ほど書くシーンがあるんだけど、毎回、ガッガッガーーーッ、みたいな。
いくら妄想爆裂系だったとしても、ラブレターってもっとドキドキしながら、字とか文章とか気をつけて書くんじゃない?(いや、経験ないんだが)
あれじゃ、ラブレターというより、怒りにまかせた抗議文のような・・・

3幕、斎藤さんさすがの貫禄。幸せで安定した結婚生活ゆえに、尋常じゃない幸福オーラに包まれる上品でしとやかな人妻タチヤーナが、まさにそこに。

手紙のPDDは、やはり21年目の正直ということなんでしょう、気合入っておりました。
自分を全く相手にしてくれなかった初恋の人が現れ、なぜか熱烈に人妻となった自分に求愛してくる、という、ある意味、女性冥利に尽きる状況。もちろん、それだけでも動揺する状況なんだけど、それだけじゃなくて、本当に幸福な結婚生活を送ってるからこそ、いっそう動揺しまくる。

冷静を装って、「出て行って」と拒絶するときも、心の中では動揺しまくってる。でも、動揺する一方で、その拒絶の時には既に、「人生には絶対に取り返せない、『機会』というものがある。彼と私の人生が接点をもつ未来は無い。」ということも十二分に悟っている。
私がある程度年を重ねていて、且つ人妻だからってこともあるんだろうけど、この気持ちを見事に表した斎藤さんのタチヤーナには、心底共感するところがあって、涙が一筋こぼれました。
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by koharu-annex | 2010-05-23 00:14 | バレエ(東京バレエ)
新国立劇場バレエ公演 デヴィッド・ビントレーの「カルミナ・ブラーナ」
2010年5月1日(土)午後2時 @新国立劇場

●ガラントゥリーズ(新制作)
振付: ビントレー
音楽: モーツァルト
指揮: ポール・マーフィー
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

【出演】
川村真樹、湯川麻美子、小野絢子、長田佳世、山本隆之、芳賀望、八幡顕光、福岡雄大、大和雅美、寺田亜沙子、伊東真央、井倉真未

好みは分かれるでしょうが、私は好き。旦那は寝てた。
衣装のウエストのところ、もう少しすっきりしてても良かったかな。
スカートの部分は柔らかくて綺麗なんだけど。

あと・・・おーい、トロンボーン!!
分かってるよね。次回は頑張ろう(「次回」があったらだが)。

●カルミナ・ブラーナ
振付: ビントレー
音楽: カール・オルフ

指揮・管弦楽: 上と同じ
合唱: 新国立劇場合唱団

【出演】
運命の女神フォルトゥナ: ヴィクトリア・マール
神学生1: グレゴリー・バリノフ
恋する女: さいとう真帆
神学生2: 八幡顕光
ローストスワン: 本島美和
神学生3: ロバート・パーカー

<序>
冒頭の「フォルトナ」のソロが圧巻。
「おお、運命の女神よ」の大合唱をバッグにしながら、セクシーさすらも漂わせながらの力強い踊りで、ちっとも負けてない。ブラボー!

<第1部 春に>
妊婦達の密やかな雰囲気と、舞台美術&衣装から感じられる春の息吹が、なんだか奇妙に懐かしい空気をかもし出していました。なんかデジャブってる感じがするんだけど、思いだせん。

街の男女の80年代の色調の衣装は、バレエだから許されるダサさですな。
(最近、マスコミで叩かれてる鳩山首相の多色プリントのシャツと同系統)
まあ、そこを狙っているんでしょうけど。

恋する女は、椅子を使ったダンス(かなり危ない振付が含まれてる)がとても上手だった。

<第2部 居酒屋にて>
ローストスワン(=ローストチキンならぬ白鳥の丸焼き!)のアイデアと踊りがとっても素敵。
食いしん坊たちに最後に食べられてしまうのですが、これはセクシュアルな意味での「食す」も含まれていて、品を落とさない限度でちょいと隠微な雰囲気がかもし出されるのも良かった。

<第3部 求愛>
ここは最も難しい箇所だと思う。
この日、友人が小学生のお嬢ちゃまを連れていらしていたんだけど、できればお嬢ちゃまには見せたくなかった・・・。

<エピローグ>
再び、フォルトゥナ登場。素晴らしい。
フォルトゥナのクローン達の中に、「女装した男性ダンサー」が混じっているのが楽しい。

カルミナ・ブラーナは歌曲なので、全編、合唱あるいは独唱がついてます。
人間の声って最高の楽器なんていうけど、これを背負って踊るのは大変で、生半可な踊りだと歌に飲み込まれてしまうことがよくある。
だけど、今回は全ての場面で歌に飲み込まれることがなくて、素晴らしかったと思います。
ビバ・新国! シーズンチケット買ってるバレエ団が成長著しいのは、やっぱり嬉しい。
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by koharu-annex | 2010-05-19 00:24 | バレエ(新国立劇場)
新国立劇場バレエ公演 ボリス・エイフマンの「アンナ・カレーニナ」(全2幕) 日本初演

2010年3月21日(日)午後4時~ @新国立劇場 

振付: ボリス・エイフマン
音楽: チャイコフスキー、アレクセイ・ウートキン、デイブ・ミラー、レオニード・エリョーミン
(全て録音音源)

【出演】
アンナ: ニーナ・ズミエヴェッツ(ボリス・エイフマンバレエ劇場 ソリスト)
ヴロンスキー: オレグ・ガブィシェフ(同上)
カレーニン: セルゲイ・ヴォロブーエフ(同上)
キティ: 堀口純

群舞; ファースト・ソリストとソリストが上記4役の出演者以外ほぼ全員 + コールド選抜、という感じ


この舞台はすごかったですねー。
このときは今年に入ってまだ3ヶ月だったのですが、今年3本の指に入る予感が。

エイフマンの振付は、超絶でものすごく難しい。
PDDの振付に至っては、想像を絶する域。ゲストのロシア人ダンサー3人全員が、体躯も、踊りのスケールも大きなダンサーだったので、すごい迫力でした。

群舞も然りで、配役をみたとき「豪華な布陣だな~」と思ったんだけど、ありゃコールドのダンサーだけじゃ到底無理なレベルでした。
皆さん、よくぞあれだけの振付を踊り切りました。2ヶ月もたって間抜けもいいとこだけど、健闘をたたえます。いよっ!日本一!(←「にっぽんいち」という音が好きなのです☆)

主役のアンナを演じたニーナ。
「アンナ」は、情念という言葉がぴったりの激しすぎる女です。しかも、愛情や感情を向ける矛先を、なぜだかいつも間違える・・・という典型的な破滅型。
ニーナは、顔では殆ど表情を作らず、むしろ淡々とした表情のままにして、感情は身体のムーブメントで表す手法をとっているんだけど、彼女の身体能力がすさまじくて圧倒されました。
最後の自殺シーンは、胸が突かれる思いでした。演出もとんがってたし。

見終わった後、旦那と不安になったのは、「明日からの日本人ダンサーで、この役をやり切れるのか」という点。
聞くところによると、「情念」を顔の表情で作る方が多かったとか。
あぁ、やっぱりそうきたか。普通はそうですわね(特に日本人ダンサーの場合、意外にこれが多いと思う)。

でも、ニーナがこれをやると濃すぎてダメだと思う。
あの驚異の身体能力を駆使した身体表現に、どろどろとした顔の表情がつくと、泥臭すぎて舞台のレベルが数段下がっちゃう感じ。
まるで能面のような表情は、「もう少し表情をつけたらどうなるか」ということを思わざるを得なかったけど、結果的にはあれこそ良かったと思う。
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by koharu-annex | 2010-05-17 23:33 | バレエ(新国立劇場)
前編で、私は、中野さんには、音楽に寄り添い音楽と同化する方向性の優れた音楽性(Aの能力でかつレベルが高い)があると申し上げました。また、中編で、この音楽性のレベルは、拍子取りが難しい曲で、なおかつ拍子が分かっていないとできない振付じゃないと判断できない、ということを申し上げました。

そしたら、例の友から苦情がきました・・・くどい、結論から書け、だそうです。はうー。
20年来の友人に、自分のブログに書いた文章でダメだしされる私。
私も暇人だけど、彼女も暇だよな~(お互い子無しだからか?)
帰納法と演繹法のことまで書かれてあったよ。はうー。
でも、また異常に美味しいお菓子を送ってくれたので、我慢します。ううう。

では、結論から。
ワタクシの感覚では、中野さんの「火の鳥」は、結果的に音楽が主役の演目になっていたところ、中野さんの演技は音楽に同化してその音楽を紡ぐ素晴らしいものだった。
これは、「音楽を表現する」という言葉の、直球ど真ん中のコアな定義に合致するものである。

で、ワタクシめが考えた理由。
中野さんの「火の鳥」は、敢えてねらった部分と、ねらってないけど結果的にうまい具合にそうなったという偶然が重なって、「音楽を視覚化」するタイプの抽象主義バレエに非常に近い演目になっていて、かつ、そこに中野さんの音楽性がドンピシャにはまったから。

上記で全てを言っているんですが、とりあえず、おしゃべりな私は補足したくなるので、以下お暇な方はお付き合いクダサイ。

舞踊の評論において、時折、以下のようなことが言われることがあります。
振付を含め当該パフォーマンスが優れているか否かは、音楽の聴こえ方で分かる。
優れたパフォーマンスの場合は、音楽があまり聴こえない。
そうでないパフォーマンスの場合は、いつもよりずっと音楽が聴こえる。


私は、この指摘は、半分当たっているけど、半分はずれている、と考えています。

当たっていると思うのは、「そうでないパフォーマンス」の場合に、音楽が悪目立ちするという感覚。
音楽を使った身体表現では、何らかの理由によって(振付が音楽とあまりに乖離している、実演者の技術不足・振付の未消化・表現力不足などにより色んな意味で音楽とずれる、など)、舞台上のパフォーマンスと音楽の間にどんどん距離ができていってしまうことがあるんです。

この場合、大げさにいえば、身体表現と音楽演奏という2つの表現が、同一場所で平行して勝手になされている感じになる。そうすると、「身体表現を観る」という目的からすると、ものすごく音楽が邪魔というか、時として、雑音あるいは妨害音のように「鳴り響く」ことがあるんです。(しかも、身体表現もいけてないから、まさにトホホとしか言いようがない状況)

だから、「いつもよりずっと音楽が聴こえる」の「聴こえる」の前に、「うるさく」という言葉を入れたら、しっくりくるかな。
私の経験では、バレエの場合、「白鳥の湖」のラストで起こることがある(白鳥のラストはことのほか音楽が強いことも関係していると思います)。

はずれていると思うのは、「優れたパフォーマンス」の場合。
確かに、演劇的な演目など、効果音やバックミュージック扱いで音楽が使用されている場合は、演目自体における音楽の地位が相対的に低いですから、優れたパフォーマンスのときに「音楽があまり聴こえない」ということがよく起こる。観てる側が演技に集中しちゃってますからね。

だけど、「音楽を視覚化」しているタイプの舞踊類型の場合、優れたパフォーマンスのときに「音楽があまり聴こえない」などということは起こらない。
この場合、音楽は、「より鮮やかに」聴こえるんです。

その理由をつらつら考えて、私が行き着いた結論は、普通の人が音楽をただ聴いているだけでは捉えきれない拍子やメロディの強弱やリズムを、目に見える舞踊という形で表現してくれることにより、音楽を「耳」だけでなく「目」からも感じて、それを脳と心で一体化できるから、ということ。
これの例として私が一押しなのは、バレエダンサー吉田都さんの「ラプソディ」です(音楽は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲)。

ここで、中野さんの「火の鳥」に話を戻します。
前回申し上げたように「火の鳥」は物語バレエですが、主人公は火の鳥ではなくイワンという男性で、この物語の中で火の鳥とは全く別のお姫様と結婚してハッピーエンドです。

では、火の鳥とはどういう存在かというと、そこは議論のあるところです。
私は、手塚治虫さんが漫画「火の鳥」で行っている解釈、つまり時間も空間も超越した存在、というのが一番しっくりきます(なお、手塚さんの漫画「火の鳥」は、バレエ「火の鳥」をみて触発されて創作されたと言われています。念のため)。

つまり、イワンやお姫様などと違って、「火の鳥」そのものには人間的な個性がなく、あるのは、一種哲学的な善悪の判断、のようなものです。
これは、中野さんから感じられる、「自分の中で良いと思っていること、なすべきこと、などがはっきりしている」、という印象とちょっと重なるところがある。
それは、私のようにうるさく、表現者の個性と演目のマリアージュを要請する者を満足させる。

他方で、中野さんは、自分自身の「善と捉えるものがはっきりしている」という印象を、強烈に前に出すわけではない(出す能力が低いかもしれないという可能性は、ここでは検討する必要なし)。少なくとも「火の鳥」の演技においては、自分自身を表出することについては、とても謙抑的な印象を受ける。
これが、また良かった。「音楽が主役」感がすごく出ていた。

ここまでは、おそらく偶然だと思う。
これからは、敢えてチーム中野(?)がねらったこと。

トラヴィンスキーの音楽「火の鳥」は、拍子取りが簡単な曲ではありません。
しかし、中野さんの「火の鳥」の振付は、音楽との密着性が非常に高いものでした。Aの音楽性を持っていないと、つまりきちんと拍子をとってそこに振付をこまかく割り振っていく能力がないと、消化するのが難しい振付だと思います。

「火の鳥」が何度もフィギュアスケートで使用されていることは存じ上げておりますが、このような音楽と密着度が高い振付は、私の限りですが記憶にありません。
例えば、今回の五輪のライサチェクさんも「火の鳥」でしたが、その振付は、フレーズ単位で把握できるタイプで、「火の鳥」の音楽そのものとの密着性は高くない。少し振付を変えれば、ほかの曲でも代替がきく印象です。(ついでに言っちゃうと、ライサチェクさんの衣装は・・・なんで黒い羽つけてんですかね?火の鳥が焦げた・・・アワワ。あの衣装にするなら、白鳥の湖のロットバルトで行った方が良かったんじゃあ・・・)

中野さんに対して、こういう音楽的な振付をしたということは、振付家のズエワさん(とおっしゃるのですね。今回学びました。)は、中野さんの音楽性を高く評価していて、そこを前面に出そうとしたのではないかと勝手に想像しています。ちなみに、EX「ハーレム」の宮本さんの振付からもその印象を受けました。

そして、あの衣装。
賛否両論あるようですが、彼女の拍子取りが極めてよく分かる衣装でした。
疾走感のある曲調の部分では、身体が流線状に変化する印象を受け、音楽への同化感を助長する。

そして何より、実際の中野さんのパフォーマンスは、文句なく音楽的でした。
スピンやジャンプですら、彼女の内なる拍子に基づいてなされていたように、極めて音楽的な流れがありました。
私が「火の鳥って、こんな音楽だったんだ!」と思えたのは、私が自分では絶対に捉えきれない「火の鳥」の拍子と独特のリズムを、中野さんが身体で見せてくれたからです。

私は、「火の鳥」の音楽については、そのメロディを、あたかも単なる途切れ途切れの糸(しかも色もまばら)のようにしか把握できないんです(私にはAの能力はありません)。しかし、中野さんがその身体表現で、きちんとした拍子と独特のリズムを見せてくれた。これは、私の把握できるメロディを横糸とすると、縦糸の存在とその色を見せてくれた、ということになります。
そのおかげで、私は、「火の鳥」という音楽を、一枚の美しい布として把握することができました。あまつさえ、そこに描かれた紋様さえ、私は感じることができました。

ちなみに、中野さんの「火の鳥」の演技の中で、私が一番音楽性が分かると私が思うのは、TEB(?)の演技です(こちら)。
私は、何度も見直したし、そのたびに画面の前でブラボーと言いながら拍手をおくりましたよ。

中野さん、本当に・・・ありがとうございました。
何度もバレエ「火の鳥」(たぶん小1時間くらい)を観ても、ちっとも経験できなかったことを、あなたの4分間の演技で、私は一気に経験することができました。
相変わらずストラヴィンスキーは苦手ですが、中野さんの演技を観ているときだけでも、「火の鳥」の音楽を美しいと思えることは、私の宝です。
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by koharu-annex | 2010-05-17 17:18 | 考察(フィギュアスケート含む)
後編書いてたら、超~長くなりそうなので、この中編の末尾に後編の一部を移ししました。青字の部分です。

*ここで使われている言葉(拍子、リズム、フレーズ、メロディ)の関係性は、<前編>をご参照ください。

後編じゃなくて、中編にしました。すみません。

さて。
「音楽に寄り添い、音楽と同化する方向の音楽性」(Aの能力)を持っている人って、以下のような特徴を持っています。

(1) 楽譜を見ずに音楽を聴いただけで、たいていの「拍子」を感覚的に取ることができる。
(2) その楽曲のメロディやリズムがどうあろうと、「拍子」を感じながら、実演(演奏や舞踊)をすることができる。
(3) 実演中に自分の内部でカウントしている「拍子」と、そのテンポが、極めて正確(外の音が消えても問題なし)。


統計取ったわけではなく私の見てきた感覚に過ぎませんが、一般的に、人間の拍子の感覚って以下のようなものだと思います(メロディとリズムが変な曲だとそのせいでまた違ってくるので、全ての楽曲に共通とはいえませんが)。

●2拍子、3拍子、4拍子 
→ 多くの人が拍子を取ることができる。

●6拍子、9拍子、12拍子など
→ 正確に拍子を取れる人がぐっと少なくなる。
2拍子、3拍子、4拍子と単純化して取っても多くの場合問題ないでしょうが、正確に取っている人とは「きちっと」感が違う感じがしますわね。

●5拍子、7拍子、13拍子など
→ 多くの人が拍子を取れない。
実演の際には、例えば5拍子なら「1・2、1・2・3」または「1・2・3、1・2」というふうに、7拍子なら「1・2・3、1・2・3・4」というふうに、2拍子、3拍子、4拍子に分解してカウントすることが多いと思います。

●曲の途中で拍子が変更
→ 殆どの人が対応できない。難しい曲になると、楽譜を見ても拍子が取れない。


Aの能力を持つ人が、上記の全ての拍子について、(1)~(3)の特徴を発揮できるかというと、そうでもなくて、そこにレベルの違いがあるのは確かです。
また、Aの能力って磨くことが可能なので、最初は変わった拍子や変化する拍子に対応できなくても訓練によってある程度対応できることもあると思います。

他方で、拍子を正確に取れる人って案外少ないのに、どうして踊れる人ってそれよりも多いの?、という疑問が浮上するわけですわね。

それはね~、私の見た感じでは、基本的にはその楽曲の個々のフレーズ(+リズム)単位で振付を把握しており、拍子はどうしても必要な箇所だけ最低限度で把握する、というやり方をしているからなんですわね。

具体的に説明しましょう。 
例えば、童謡の「ぞうさん」に簡単なお遊戯を振付けたとします。
たいていの人は、「ぞ~ぉさん♪」、「お~はなが♪」、「ながいのね♪」、などのフレーズ(+リズム)単位で振付を把握します。

だけどね。音楽性が高い人は違う。

「ぞうさん」って・・・3拍子なんですよ。

「ぞうさん」を踊るのに、3拍子を感じながら踊る人ってものすごく少ない。賭けてもいいけど、絶対少ない。でも、音楽性の高い人って、ワルツには程遠い、この「ぞうさん」ですら3拍子を感じながら踊る、ということですわね。
ニュアンス伝わったかなあ~。


で、次に出てくる疑問は、「拍子を感じながら踊っている人」と、「フレーズ単位で踊っている人」では、何が違うのか?という点。

この答えは単純。

前者は「音楽と同時に動いてる」、後者は「音楽が聴こえてから動いてる」ってことです。
もちろん後者でも、拍子がずれるほど動きが遅くなることはないですから、この違いは、非常~に、幽き(かそけき)違いです。
特に、「ぞうさん」レベルの曲で違いは見えません(笑)。

が、一般論として、たくさん、たくさん、たくさん、音楽付きの「身体表現」を見ていると、だんだん幽き違いが見えてくるんです。
そして、その表現者が、比較的ちゃんと「音楽と同時に動いている」人なのか否かが、何となく分かってくる。
ごめんなさい。この部分についてはもうこれ以上具体的にいえなくて、そうなるのとしか言いようがない。

ただ、Aの能力の「レベル」の判断は、曲と振付が判断向きのものじゃないと難しいです。
仮にAの能力が低かったとしても、拍子ではなくフレーズ(+リズム)で振付をこなせる演目の方が多いと思うんですね、数からすると。
だから、Aの能力の「レベル」の判断って、拍子取りが難しい曲で、なおかつ拍子が分かっていないとできない振付である場合じゃないと明白にはできない、といえるのですわ。

はあ、やっと行き着いた。
そこで、中野さんの「火の鳥」なんですわ!

じゃあ、後編でまた!

<後編の一部を移動させました>

「火の鳥」は、ストラヴィンスキー作曲のバレエ音楽です。

バレエをあまりご存知でない方も多いでしょうから、ちょっと説明させて下さいね。
「火の鳥」は、ロシアの複数の民話を基にした物語バレエです。バレエ・リュスという、バレエ史的にいうと革命的なバレエ団が1910年にパリで初演しました(バレエ・リュスとはロシアバレエ団という意味ですが、主な活動地域はヨーロッパです)。

バレエ・リュスの主催者ディアギレフは、史上3本の指に入るであろう優秀な興行主で、また、「天才を見出す天才」というべき人です。ストラヴィンスキーも彼に見出された芸術家の1人で、「火の鳥」の以来を受けた当時、彼は地元ロシアですら無名でした。

ストラヴィンスキーの「火の鳥」の作曲過程は、振付家フォーキンの台本作成&振付と並行して行われています(これについては興味深い話があるのですが、ここでは無視)。
結果として、バレエ「火の鳥」は初演から大成功。ストラヴィンスキーは、世界デビューと同時に名声を手にします。ストラヴィンスキー28歳の年。

その後たて続けに、彼は、バレエ・リュスのために、「ペトルーシュカ」(1911年)、「春の祭典」(1913年)を作曲します。「火の鳥」とあわせてこの3曲は、ストラヴィンスキーの三大バレエ音楽と呼ばれていますが、おそらく彼の作品群の中でも、かなり有名な楽曲ではないでしょうか。特に「春の祭典」は、20世紀音楽の傑作中の傑作などと呼ばれていますので、バレエ音楽と知らない方も多いのでは?(バレエ音楽って、基本、下に見られてる気がするので・・・)

ストラヴィンスキーのバレエ音楽には以下の特色があるのですが、これらは作曲の順番が後になるほど顕著になってる感じです。(つまり「春の祭典」に最もどぎつく出ている)

① 攻撃的あるいは緊張感あふれる音色バリバリの不協和音(複調を含む)
② メロディよりもむしろリズムが主役となっている主題
③ 変拍子が多く、おまけに短い時間でコロコロと変化する

こういう曲は、演奏家もやりづらいでしょうが(実際、難曲と言われているそうです)、ダンサーも踊りづらい。
「春の祭典」にいたっては、舞台上のダンサーが「1、2、3」とカウントを取っている声が聞こえた、という話もあるくらい(たぶんニジンスキー版だったと思う)。

白状すると、私は、ストラヴィンスキーの音楽がとっても苦手です。
でも、彼が曲を提供している演目は、バレエ史やバレエの全体像を把握する上で、重要かつ必須の演目が多いのです。なので、仕方なく、無理に無理を重ねて、「火の鳥」も、「ペトリューシュカ」も、「春の祭典」も、何度も何度も、すごーくガマンして観てる。
それでも、未だに苦手です(過去のこちらの記事ご参照)。 だから、バレエ「火の鳥」みてても、「早く終わって・・・」と後半は願っちゃってることが結構ある。

ところが。
そんなワタクシめが、中野さんの「火の鳥」を最初に見たとき、目だけでなく「耳」を奪われたわけですよ!

火の鳥って、こんな音楽だったんだ!


と、ものすごく驚いて、テレビの前で凍りついたように中野さんの演技を見続けたことを、今でも鮮明に覚えてる。

で、私は、分析するわけだな、どうしてそう感じたのか、その理由を。


<以下、本当に後編に続く、と>

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by koharu-annex | 2010-05-14 15:40 | 考察(フィギュアスケート含む)
信ちゃんの第2弾((2)について)を途中まで書いてはいるんですが。
コメント欄で何度か触れさせて頂いたのですが、内容についてあまりに手を広げすぎたおかげで収拾がつかなくなっています。なので、一般論については別トピックとして先に書いていこうかな、と。

ということで、今回は、音楽に関するとあるトピックを。

また3月の世界選手権に戻ってもよいでしょうか(苦笑)。
ヨナちゃんのLPで、彼女が失敗して、スケート的にはもちろんそうでしょうけど、舞踊的にも見るべきところなく滑っていた終盤、解説者が「でも、キムヨナ選手は、音楽を表現するのが、本当に上手ですね~。」という趣旨のことをおっしゃったんです。

この「音楽を表現するのが上手」という趣旨のセリフ、ずっと昔からフィギュアスケートの解説では時折使われていますが、私は以前からちょっとひっかかっていました。
しかし、今回の上記解説者の発言で、確信したんです。フィギュアスケートの解説者って、このセリフを、「何も言うことがないときに使う」、というトホホな真実を。

正確には、スケーターが、①スローテンポな曲にのせて、②簡易な振付をこなしてはいるが、③特に情感は表せていない、という時で、かつ、解説者が「何か言わなくちゃ。」と思った場合に使われる。

アップテンポの曲の場合、振付どおり踊れていれば、「よく体が動いてます。」「のってますね。」などと言う。スローテンポな曲でも、振付が難しい場合は、「簡単そうに難しいことをやってます。」とか「この●●は難しいんですよ~。」などと言う。情感が表されている場合は、「表現力がありますね。」「なりきってますね。」「個性が出ています。」などと言う。

だけど、①~③の全てが揃ってる場合は、何も言うことが無い。で、普通は黙ってるんだけど、このスケーターを褒めなくちゃいけないと思っちゃった場合、あるいは黙っているのがいたたまれない場合に出てくるのが、「音楽を上手に表現してます。」である、と。
ついでにもっとはっきり言えば、スケーターが自分で情感を表せていないくせに、④「ちゃんとそっちで何か感じてね。」とアピールしているように見受けられる場合に、使用頻度が明らかに高くなってる。

これは、解説者が「音楽を表現する」ことを超~甘く見てるってことだけど、私はこれには大反対です。
音楽を表現する」ことって、音楽にのせて身体表現を行う場合の究極の目標の一つです。ちなみに、抽象バレエのうち音楽を視覚化した類型においては、ほぼ唯一の目標といっていい。そして、この「音楽を表現する」っていう目標は、非常~に難しい目標なんです。

それなのに、安易に解説者が「音楽をよく表現しています。」などと言うと、経験値の浅い視聴者の人達が、「こういうのが音楽を表現するってことなんだ。」と思い込み、以前述べた「滑らか芸術論」(こちら参照)と同様の問題を生じさせてしまいます。

音楽は、リズム、メロディ、ハーモニーの3要素から出来ています。このうちハーモニーは、今回の問題の場合、無視していい。なので、とりあえずリズムとメロディを念頭において下さい。
リズムとメロディって、言葉にすると簡単に分けて理解できるように思えるけど、実際は分かち難く結びついていて、私達は密接に関連した両者を「音(楽)」として捉えるわけです。

ちょっとここで、音楽理論からは正確じゃないだろうけど、私が後で使う「拍子」「フレーズ」という言葉の意味を、先に説明しておきますね。

「拍子」
私達が感じる具体的な音楽の「リズム」の前提にある、2拍子とか3拍子とか4拍子などの、拍子の意味で使います。拍子をとることを、「カウントする」と言わせてもらったりもすると思います。

「フレーズ」
大きなメロディを構成する小さなメロディ、くらいの意味で使います。

さて、音楽にのせて身体表現をするためには、当然、最低限の音感が必要です。なので、競技会で演技が出来ているスケーター達は、全員、ある一定以上の音感が備わっていることは確かです。ヨナちゃんだって、真央ちゃんだって、高橋さんだって、信ちゃんだって、皆、一定レベル以上の音感はゼッタイに持ってる。
ただ、残念ながら、その全員が「音楽を表現」できるわけでは、ない。

表現者の中には、体の中に音楽を取り込める人達がいます。「音楽的」とか、「音楽性がある」、などと言われる人達です(もちろん論者によって意味は違ってきますが)。
私は、この人達の能力って、大きく次の2種類に分かれると考えています。

A; 自分の内部で拍子をきっちりとカウントできていて、振付をリズムとフレーズに完璧に細かくきちんと割り付けて、正しく踊ることができる能力
→ とても上品な踊りになります。バレエダンサーにおいて、この能力は大きな美点。

B; リズムとそれに合わせられている振付を、実際に踊る時に、天性のカンで限界までずらすことができ能力。
→ この踊りは、カッコイイ。鑑賞者に「ずれた」と思わせず、「味」(スゥイング等)と思わせることができます。

もちろん、これらの能力を持っていなくても、努力によって同様の効果を得ることはできます。が、やはり、天性の能力の有無では、効果のレベルに差があります。

Bの能力を持っているのは、高橋選手と鈴木選手です。
特に、高橋選手は図抜けています。

Bの保有者が踊る時、本来該当しているリズムよりも先に動作を始めたり、フレーズが終わった後に動作が終わったりします。ところが、それらが「失敗」の印象を残すことはありません。表現者が、あたかも音楽を引っ張ったり、伸ばしたり、自在に操って遊んでいるかのような印象を与えることさえあります。その印象は強烈にカッコイイので、解説者も、Bの能力が発揮された場合には、結構、ちゃんと褒めてます。

また、Bが強烈な印象を残すのに対し、Aはわりと地味ですから、見ようと思って見ないと見えないものです。だから、音楽に対するセンスという意味では、AよりもBが優れているのではないかと思う人が多いかもしれません。私も、昔(バレエが古臭く感じて、それ以外のジャンルのダンスの方がカッコイイな~と思っていた時期)は、BはAの進化系だと思っていたんです。

が、今は、そうではないと思っています。Bを持っていても、きちんとカウント取りをした踊りができない人って、ものすごく多いんです。むしろ、BよりもAの保有者の方が、実際は少ないんじゃないか、と思うくらいです。なので、おそらく、AとBは違う能力なんだろうなあ、と思っています。

実は、「音楽を表現する」ためには、Aの能力を持っていなければならないんです。
このAの能力って、いわば、音楽に寄り添い、音楽と同化する方向の「音楽性」なんですが、それがまさに「音楽を表現する」ということです(少なくともバレエにおいては同趣旨のことが言われています)。
これに対し、Bの音楽性は、言ってみれば、「音楽を表現する」のではなく、「音楽を自己の表現のために道具の一つとして使用する」ようなものです。

Aの能力を持っていたのが、中野友加里さんでした。
私は、引退した方の話はしないようにしているのですが、今回はちょっと特別に書かせて下さいませ。
彼女は、プログラムによくバレエ音楽を使用していましたけれど、それは彼女の音楽性が非常にバレエ向きだったからだと思います。(実は、ルックスと姿勢に関しては、バレエに不向きなマイナス点も結構ある。)

だけど、私がテレビやyoutubeを観た限りにおいてですが、彼女の音楽性を真正面から褒め称えた解説って、残念ながら無かったと思います。

彼女のこの優れた音楽性というのは、本当に珍しいくらいの高度なものです。
彼女の演技こそ、まさに「音楽を表現する」ものでした。

だから、最初に述べたような、間違った時に間違った人に対して「音楽を表現するのがうまい。」などと解説するのではなく、ちゃんと中野さんが滑っているときに「音楽を表現するのがうまい。」、「よく音楽を表現している。」と解説すべきだったと、私は思う。

また、Bの能力を褒めているのであれば(具体的には鈴木選手と高橋選手は音楽の取り方について褒められています)、Aの能力についてもちゃんと褒めるべきです。

今更ながら、ネットの隅っこからダメだしさせて頂きます。

ちょっと長くなっちゃったので、後編に続きます(またかよ!と自分で突っ込みいれてます・・・)。
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by koharu-annex | 2010-05-08 22:31 | 考察(フィギュアスケート含む)
パリ・オペラ座バレエ団日本公演「ジゼル
2010年3月21日(日)午後1時30分 @東京文化会館

音楽: アドルフ・アダン
振付: ジャン・コラーリ、ジュール・ペロー(1841)
改訂振付: マリウス・プティパ(1887)、パトリス・バール、ユージン・ポリャコフ(1991)
装置・衣装: アレクサンドル・ブノワ

演奏: 東京フィルハーモニー交響楽団
指揮: コーエン・ケッセル

【出演】
ジセル: オレリー・デュポン
アルブレヒト: ニコラ・ル・リッシュ

ヒラリオン: ジョシュア・オファルト
ウィルフード: ジャン=クロストフ・ゲリ
ベルタ(ジゼルの母): ヴィヴィアン・デクチュール
クールランド大公: ヤン・サイズ
バチルド姫: ベアトリス・マルテル
ペザントPDD: メラニー・ユレル、エマニュエル・ティボー

ミルタ: マリ=アニエス・ジロー
ドゥ・ウィリー: マリ=ソレーヌ・ブレ、サラ=コーラ・ダヤノヴァ


随分前のことで記憶が抜け落ちてて大変でござる。

ジゼルを踊れてこそ一流のエトワールといわれるオペラ座(パンフレットより。そうだったのか…)。
ずっと昔(オレリーがエトワールになってまだ数年しか経っていない頃だと思う)、ダンスマガジンで、「まだ『ジゼル』は断りたい。『オーロラ』なら自分にあってるからやりたい。」とオレリーが話していたとする記事を読んだことがあったんですよね。
そのオレリーが、地元でジゼルを踊って評判を取ったと聞いた日にゃ、行かねばなりますまい。オレリーのジゼルへ!

で、結局、強烈に印象に残ったのは、ジローのミルタなわけだな。
はっは。人生ってそんなものですね、と。

それにしても、オレリーとリッシュは、二泊三日の強行スケジュールで来日して下さったそうです。
有難いです。しかも、2人ともそんな様子は微塵も見せず。素晴らしいです。

【舞台美術・演出】
1幕の舞台にセッティングされている坂道に、少々不満が。
ジゼルの1幕では、坂道が用意されます。アルブレヒトや大公の行列などはこの坂を下って、ジゼルの村にやってきます。これにより、上に位置する貴族階級の人が、下に位置する庶民の世界にきたということを、視覚から感覚的に理解できるようになっています。

今回の「坂道」は、下手に用意されていました。つまり、向かって左が高くなっていて、そこから中央に向かって下りてくる坂道。

変わっているのは、この坂道、下手(左)の高い位置から、上手(右)に向かって、カーブして道が延びているんです。問題は、その延びた道に起伏があること。一回下がって、上って、また下りる。山道に小さなコブがあると思ってもらえば分かり易いかしら。

そのコブをダンサー達が上り下りするたび、ドッタドッタ音がするんですわ。
何度か、ちょっとうるさいなぁ・・・と思いました。
特に、ジゼルが錯乱死した直後に、貴族達が引き返していく時にこの音が響いたときは、イラっとしました(もちろん、ダンサー達がなるべく音を出さないように気をつけていたのは分かりましたが)。
日本公演だけなんだろうか、あの変な坂は。

2幕のサイコロ遊びをする人々(博徒?)が、比較的長く舞台上に居た感じでした。
夜中の墓場ですから、ちょっと違和感を覚えた観客もいたみたいですね。
私も以前から「なんで奴らはここに?」と思っているので、いつかリサーチしてみたいところです。

【ダンサー】
とにかく、2幕のジローのパ・ド・ブーレ(以下「パドブレ」)がすごい!
動きがすごく細かくセーブされているのか、変な揺れが下半身に全く無い。加えて、上半身に全く上下動がないように見える。なんだこりゃーーーー!!!

と思い、私、下にレールを探しました。

ギャグじゃありません。私、もう10年くらい前だと思うんですけど、日本のバレエ団の舞台で、ウィリの1人が、レールに引かれて、アラベスクのポーズを微動だにさせないで出てくる、という演出を見たことがあるんです。ちなみにその舞台では、ワイヤーでつられて出てくるウィリもいて、まさにウィリがゴーストのように空中を飛んでいたのでした。保守派は怒るんだろうケド、あれはあれでとてもスペクタクルな良い舞台でした。

しかし、ジローの下にレールはありませんでした。あれ、自力でやってるんだ! あらためて驚愕。
しかも、どんな時も音がしない。音なしのミルタって、本当に迫力あるというか、怖いのー! 

という次第で、ジローがあまりに凄いので、申し訳ないけどオレリーのパドブレがぎこちなく見えてしょうがない。
まあ、ぎこちなさという点は、「ウィリの新入り」であるジゼルに、ある意味ピッタリとも言えますが。
最後のシーンで、かなり大きな音が出ちゃって、あら~残念・・・という感じでした。
もちろん、ジローがいなけりゃ、音なんて普段こんなに耳につかないと思うんですけど。
(1幕の坂道の件もあったので、余計、音に敏感になってたのかしらん?)

リッシュは、アントルシャがとても美しかったです。
押しも押されぬスター、リッシュ。強行日程に心配したけど、安定した彼の踊りが見れて非常に満足でした。
あぁ、ちなみに、彼の演じるアルブレヒト(1幕)は、跳び蹴りくらわしたいくらいヒドイ男でした。ジゼルは、完全に「お遊び」対象でした。
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by koharu-annex | 2010-05-05 23:22 | バレエ(パリオペラ座)