もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

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表題は、故ナンシー関女史が、ファッションデザイナーのごあきうえ氏を評して書かれた名言。

ここ数年、このナンシーさんの名文で私が思い浮かべるのは、ごあきうえ氏ではなく。
・・・そう、われらが織田君であります。愛をこめて、以下「信ちゃん」と呼ばせて頂きます。

信ちゃんは、私がもっとも評価する「自分ではない何者か」を天然で表現する能力は、おそらく皆無です。また、後天的に「自分ではない何者か」を表現する「コツ」を習得することも、彼のその手の方面に対する不器用さに照らすと、難しいと思う。(なお、これらの能力については、過去のこちらの記事をご参照ください。信ちゃんは、この過去記事における「3」タイプだと思う)

ということは、彼の場合、「自分自身」しか表現できないことを前提にしなければならない。ただ、そういう人って案外いるので(当然アマチュアには多い)、この点を取り立てて問題視する必要はない。
信ちゃんについて、真に検討しなくてはいけないのは、以下の2点だと思う。


(1)表現すべき「自分自身」の確定
(2)どんなことをしても「何かが足りない」印象が生じる理由とその対策


(2)の最も大きな理由は、(1)の「自分自身」の確定が未だなされていないことだと思うので、今回の記事ではまず(1)を検討します。ついでに演目も検討しちゃいます。(2)については、特に表現手段を中心に、あらためて後日別の記事をアップしますね。

では、(1)表現すべき「自分自身」の確定、から。
信ちゃんは、表現の基礎となる肝心の「自分自身」にすごく迷いと不安があるように見受けられる。

「ボクってこれでいいの?」、「ボクってどんな人間なの?」、「こんなボクでみんなは評価してくれるの?」という類の、迷いや不安が書かれた吹き出しを、信ちゃんは背中にしょって滑ってる。この吹き出し、メンタル面の調子の良し悪しによって大きさは変われど、常に彼につきまとい時に彼を押しつぶす、まさに子泣き爺のような存在。

信ちゃん・・・
早く、その子泣き爺、どっかの底なし沼に沈めてしまえ。

そのためには、どんなに自分の思い描くものと離れていても、ちゃんと「自分自身」というものを客観的に認識しなくちゃいけない。それはつらい作業かもしれないけど、表現者としてやってくためには、やらなきゃいけない。

鑑賞者サイドから見て、信ちゃんというのは、面白いことやくだらないことが大好きで、優柔不断な優しさがあって、人懐っこくて、親しみやすい、クラスに1人くらいいそうな普通の男の子です。ついでにいうと、不器用で、忘れ物が多くて、おっちょこちょいで、ドジで、成長しても世渡り下手だろうなあと思わせるところがある。地元の商店街が似合って、そこのおじちゃん・おばちゃんに可愛がられて、いつもコロッケなんかをおまけしてもらえるタイプ(肉なしの一番安いやつだけど)。

要するに、彼は、「愛すべき小市民」です。
目の前に起こる小さな出来事に幸せを感じたり一喜一憂する、世界中どこの国にでもいるけど決して目立たない、平和で平凡な小市民です。

多くの表現者が、「自分にしかない何か特別なもの」を探そうとする。でも、特別じゃない「ごく普通なもの」に目を向ける方法があることを忘れちゃいけない。なぜなら、「ごく普通なもの」をごくナチュラルに表現できることにも大きな存在意義があって、それはその表現者の得難い特徴になり得るからです。たとえば、バレエにおいても、立ってるだけで王子様オーラばりばりの人が、町や村などの市井の人を踊ると(そういうのが主役のバレエも多いんです)、妙に存在感あり過ぎて風景から浮いちゃうことがある。だから、そういう役柄には、オーラが突出していない「普通」の要素があるダンサーの方が向いていてるんです。

ちょっと脱線したのでついでに書いちゃうけど、表現の天才がいる場合、周りの表現者は多くの場合つぶれます。つぶれ方は大きく分けて3種類。1つは「模倣」というつぶれ方。2つめは「自分を見失う」というつぶれ方。最後は「脱落」というつぶれ方。最後のつぶれ方が、数としては一番多いと思う。人間って本当に弱いから。

だから、表現の天才・高橋選手があんなにも身近にいながら、信ちゃんが脱落しないでいるのは、本っ当ぉにえらい。また、安易に模倣に走ってないのもえらい。でも、信ちゃんの「自分自身」のぐらぐらさ加減は、2番目のつぶれ方の入り口付近をうろうろしているのではないかと、私は危惧してる。高橋選手の存在に惑わされて、「自分にしかない何か特別なもの」を探す旅に出たりしちゃ、絶対にダメです。

ということで、地味でえーっ?って感じかもしれないだろうけど、私は、信ちゃんにはごくごく普通の「愛すべき小市民」である「自分自身」をちゃんと受け入れて欲しいと思っています。
そして、信ちゃんが無事に、自分は「愛すべき小市民」であると開き直れたのであれば、この特徴をもっと前面かつ全面に出して欲しい。

ただ、それを「おふざけ振付」の形で出すのは控えめにした方がいい。
信ちゃんの「おふざけ」な側面は、脚光が当てられているけれども、信ちゃんにとっては諸刃の剣です。

彼が完遂する「おふざけ振付」を取り上げて、「エンターテイナー」とか「表現力がある」と評されていることは知っています。だけど、私は、そういうぬるま湯な評価に満足すべきではないと思ってます。なぜなら、信ちゃんの「おふざけ」な側面には、微妙な気の弱さと感情過多を覆い隠そうとする、本能みたいなものが感じられるからです。

一般論として、表現者の有する「おふざけ」な側面にフォーカスするのが悪いわけではありません。だけど、信ちゃんの場合、その裏にある「気の弱さと感情過多」に何ら対策を講じないまま、「おふざけ」でフォローし続けるのは賛成できない。その方法は回を重ねるほど無理が生じる種類のもので、一定割合の鑑賞者に「半分痛い」という印象しか与えないからです。

なので、「おふざけ」側面が信ちゃんの本質の一部であることは否定しないけれど、「気の弱さと感情過多」をある程度コントロールできるようになるまで、前面に押し出すことは控えた方がいい。
もちろん、控えたとしても、「おふざけ」側面が本質の一部である以上、何かの拍子に、あるいはそこはかとなく、「おふざけ」感は彼の演技から出ると思う。それはそれでいい。
ここで控えるべきといっているのは、敢えて行われる「おふざけ振付」のことです。


以上の考察を前提に、ここで演目を検討したいと思いまーす!

信ちゃんは「自分自身」しか表現できませんから、演目についても信ちゃんの本質である「愛すべき小市民」と、非常に近しい無理がないものを選ぶ必要があります。

そうそう、「愛すべき小市民」であることには、もう1つ利点があります。
信ちゃんの体の小ささを、最大限生かせる、ということです。
体のでかい表現者の「小市民」の演技に、かなり違和感があることを想像してもらえば(たとえばライサチェクさんを想像してみて下さい・・・)、良く分かると思います。

ここまで読んだ皆さんの中には、今期の「チャップリン」はぴったりと考える人がいるかもしれない。
確かに、チャップリンが映画の中で多く演じているトランプさん(The Little Tramp)は、多くの場合、市井の人で、体も小さくて、とっても面白い。

だけど、「チャップリン」を信ちゃんに演じさせるのは、あまりにも無謀です。誰が決めたのか知りませんが、私があと15年若くて血の気が多かった頃ならば、ちゃぶ台ひっくり返しながら「つぶす気か!」と叫んじゃうレベルのひどい仕打ちです。

チャップリンには「毒」があるんです。なぜなら、チャップリンは実は「怒れる男」だからです。
世の中を時には斜めや裏からも凝視し、「笑い」という強烈な武器で批判している、というのが彼の真実の姿です。大きな悲しみに裏打ちされた、ゆるぎない「怒り」から生じる、究極の「反骨精神」と「ヒューマニズム」がチャップリンの本質です。
チャップリンのもつ哀愁は、この他の追随を許さないほどに強い「反骨精神」と「ヒューマニズム」がもたらす孤高の孤独からくるものです。

これは、信ちゃんのほとんど対極に位置するものといっていい。
つまり、信ちゃんの個性とチャップリンの個性は、実は、一ミリも重ならない。

信ちゃんがいつも「面白い」から、そしてチャップリンが「喜劇王」って言われているからという理由だけで、そして「周りの笑いを取る」というあまりにも浅薄な共通項だけで、チャップリンを選んだとしたら、考えなしにもほどがある。
もし、そうでなはなくて、信ちゃんがチャップリンの本質に迫れると考えていたのなら、それははっきり言って、信ちゃんを買いかぶりすぎて、逆につぶす方向に導いている。
また、もし、万が一、これが信ちゃんの発案ならば・・・どっかの寺で内観してこい!

ちなみに、私が、チャップリンを演じられる人を挙げるなら、プルシェンコさんですね。
彼とチャップリンは揺ぎ無い信念を有する点で、完全に一致します。

という次第で。
信ちゃんには、素直な「愛すべき小市民」系でいきましょう、という話です。
そうすると、過去の演目にある「セビリアの理髪師」は◎(二重丸)です。
なので、セビリア・・・の続きであるオペラ「フィガロの結婚」も◎。

私の、超一押しは、映画ライフ・イズ・ビューティフルのグイドです。
(メイン音楽はこちら。)

第二次世界大戦における市井のユダヤ人の愛と悲しい運命を描いた名作だけど、そんなこと信ちゃんは一切考えなくていい。
ひたすら、妻と子供への愛と、家族の小さな幸せだけを、想って滑ればいい(主人公のグイドがまさにそうなので)。

ただ、信ちゃんは表現力の地力(表現に乗っけられる情感のパワーの強弱、というくらいの意味で使ってます)が、生来的に強いタイプではないので、赤ちゃんができてパパ感情が増幅された後に、その増幅されたパパ感情をもって演じる方が出来がいいと思う。
できれば、つかまり立ちなどができるくらいの可愛い姿を見た後の方が良い。
だから、来シーズンじゃなくて、その次だな。

ところで、「愛すべき小市民」系で、SP、LP、EXの全てを揃えるのは、無理ですよね。
そこで、私がお勧めしたいのが、「愛すべき小市民」系はLPにして、SPにおいてはキャラクターダンサーの道を進むことです。

私が考えたのは、以下の2つ。

● 「夏の夜の夢」の妖精パック
● 「海賊」の奴隷アリ

いずれもバレエ作品だけど、高い技術が必要で、主役よりも印象が残る役柄です。
そして、いずれも王様や海賊に仕える身分の役柄なので、技術は高いけど、控えめな雰囲気で、かつ体が小さめのダンサーの方が合う。
「控えめな雰囲気」というところがポイントで、ここが信ちゃんの小市民と共通する。

パックについては衣装が問題だな(つたが絡まった裸体)。
メンデルスゾーンの音楽についても、私の感覚では使える部分は2つの主題くらいしかないので工夫が必要。ただ、ラストに、メンデルスゾーンの有名な結婚行進曲が入っているんですよ~~!ストレートラインでどうぞ~~~
なーんて、もちろん、信ちゃんが結婚行進曲で演技するなんてこと、照れて失敗を呼ぶので有り得ない。だけど、私のはなむけの言葉です。迷惑だろうが受け取ってクダサイ。

アリは、バレエの衣装は上半身が裸なので、こちらも工夫が必要でしょうね。
ただ、音楽は元気が良いので、そのまま使用してもよいのではないでしょうか。体力がもてばですが。

ではでは、(2)どんなことをしても「何かが足りない」印象が生じる理由とその対策、については追って後日ということで。
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by koharu-annex | 2010-04-29 22:26 | フィギュアスケート男子

表示について

【赤字の部分、28日午後2時20分に追記しました】

えっと、複数の方からご連絡がありまして。

どうしようかと迷ったのですが、混乱をきたすよりかは良いと思って、この記事をアップします。おめざわりだったらゴメンナサイ。

あの~、私の記事やコメントの文章をですね、引用元(つまりこのブログなわけですが)を明示しないまま、あたかも、引用したご本人の創作物であるかのように書かれているものがあると、複数のご連絡を頂いております。

ありていにいえば、「Koharuちゃんの文章をコピペしてるくせに、自分の文章として発表している!これは盗作じゃない?!ちゃんと抗議すれば?」というものです。
あぁ、あと、「Koharuちゃんの記事と、コメントのやりとりを合体させて、1つにまとめて書かれてある。もともとのKoharuちゃんの記事よりも内容が濃くなってる。明らかに盗作なのに、あっちの方が評価されると心配」という内容もありましたです。


いろいろURLなども教えて頂いているのですが、なかなか確認する時間もなくて。
というか、ぶっちゃけ、私は別にそういうことしてもらってもOKなので、あまり興味ないんです、ははは。

私の目的は、表現力についての間違った風評について「おかしいんじゃない?」と思う人が増えてくれたり、フィギュアスケートをちゃんとした舞踊目線で見る人が増えてくれることなので、いろんなところに私の書いていることが広まってくれるならば、本望です。

仮に、それによって、ネタ元を表示しない引用者が賞賛を受けているとしても(そう言って連絡くれた方がいらっしゃったのですが)、別に構いません。

もちろん、拙ブログをご紹介いただくことについては、ブログの名前や私の名前が書かれていなくても、リンクを張られていなくても、URLの紹介がなくても、全てのご紹介についてありがたいことだと思っております。

ただ、ちょっとお願いしたいことがあります。
あの~。実は、わたくし、職業上、常日頃から、健全なネット文化を築けといろんなところで申し上げている立場でございまして。
引用に当たっては引用元を表示するのが、法的にも礼儀としても「健全」ということは明らかなわけです。

なので、私の文章についてはとやかく言いませんが、他の方のコメント等についてどこかで引用される場合は、きちんと引用元の表示をお願いしますね。

よろしく、です。


が、いずれにしても私自身の文章については、ご心配はまったく無用ですので、お気遣いなく!!!
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by koharu-annex | 2010-04-28 01:57 | ごあいさつ

Kバレエ「海賊」

また、だいぶ昔のことになってしまいましたが・・・久しぶりにKバレエを観て来ました。

Kバレエカンパニー「海賊」
2010年2月28日(日)午後2時~@オーチャードホール

【振付】
原振付:プティパ、再振付:熊川哲也

【演奏】
指揮:福田一雄、オケ:シアターオーケストラトーキョー

【出演】
メドーラ:浅川紫織
コンラッド:スチュアート・キャシャディ
アリ:熊川哲也
グルナーラ:松岡梨絵
ランケデム:伊坂文月
ビルバント:ビャンバ・バットボルト
サイード・パシャ:ルーク・ヘイドン
ギリシャの少女達:神戸里奈/副智美/浅野真由香/日向智子/井上とも美
            中村春奈/松岡恵美/中谷友香
海賊の男達:西野隼人 ニコライ・ヴィユウジャーニン
        浅田良和/荒井英之/内村和真/合屋辰美/長島裕輔/奥山真之介
(第1幕)物乞い:湊まり恵 
           荒井英之
(第2幕)パ・ド・トロワ:第1ヴァリエーション 東野泰子
              第2ヴァリエーション 樋口ゆり
              第3ヴァリエーション 白石あゆ美
      鉄砲の踊り:中島郁美
              並河会里/岩淵もも/西野隼人/ニコライ・ヴィユウジャーニン


Kバレエなので、旦那は観ないだろうと踏んで1人分だけチケット入手したら、「海賊は行きたいって言ったはずなのに!」とクレームが。
うーん、そんなこと言われたっけ?思い出せん。

でも、実は私の日程調整がついたときにはチケットは完売していて、私のチケットもオケピでようやく1枚入手したものだったの。だから、覚えてても、あーたの分は無理だったわ~ごめんね~
(本当は、私、熊川さん以外の方がアリを踊る舞台も観たかったんですけど、とうとう日程調整がつかず。残念。)

さて、この日は銀座で用事があったので、銀座から地下鉄銀座線に乗ったのですが。

あらんことか、ワタクシ、劇場を間違えまして上野に向かってしまいました。そう、東京文化会館に。
で、早めについたので劇場のショップで買い物なんかして。。。そうこうしているうちに2時前になるのに、まだ入り口の準備がなされない。「?」と思い近づくと、なんとその日3時から行われる白鳥の湖のポスターが!(しかも違うバレエ団。当たり前だけど)

げっ!と思ってチケット確認。きゃー!オーチャード!!!渋谷ぁぁぁぁぁ!!ま逆方向ぉぉぉ!

山の手(東京文化会館からは一番近い)に飛び乗って一路渋谷へ。時間を計算して・・・奴隷市場あたりからは観れるでしょう、多分・・・なんて思いながらオーチャードへダッシュ。

ぜーぜー言いながら到着。係りの方が、「次の場の時にそっと中に案内しますので、その時まで映像をご覧下さい。」と画面の前に連れて行って下さる。

お、やっぱりちょうど奴隷市場。当たり~!・・・なんて言ってる場合じゃない。いや~ん、なんなの、この画質の悪さは~(泣) ハレーションで全然動きも舞台美術も見えないようーーーーっ

その後、無事に係りの方(本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした・・・)に中に案内してもらったワタクシ、安心したのか、まさかの爆睡。

なので、ところどころ抜けているんですが、とりあえず覚えている限りで備忘録を。

2幕の舞台美術が派手です。なんか「洞窟」という言葉から浮かぶイメージとはかけ離れているけど、それはそれでOKです。

オケ(というより指揮者?)が微妙に混乱するときがありました。海賊(2幕は特に)は、ダンサーによって音楽のピッチやタイミングを変えなくてはならない箇所が多いので大変だと思うんですけど、明らかに間違えたところがありましたね。残念。

男性ダンサーの諸君、君らは素晴らしい!! Kバレエの将来が楽しみになってきました。次は熊さん以外の舞台も、必ず観に行きますわ。

熊川さんは、いつも登場したときや、踊りはじめのときに、「はい、く・ま・か・わ、でっす!」オーラを
出すんですよ。主役なので当然なんですが、彼の「く・ま・か・わ!」は、とりわけ強烈。ところが、今回は奴隷のアリ役なので、「く・ま・か・わ!」オーラをしっかり抑えて、キャシャディ演じるコンラッドを立ててきっちり従っている。こんな抑えた演技もできるんですね~。まぁ、裸の背中から(奴隷なので裸なのです)、いつもの「く・ま・か・わ!」オーラを必死で隠している様子というか、むしろ出したくてたまらなくてウズウズしている様子が伺えたような気がしないでもないけど、気にしませんよー。

浅川さんは、32回転の最初の方でダブルを連続で入れてきて、客席ちょっとどよめき。その後、一瞬お休みいれて、何事もなかったかのようにもう一度回り始めて、最後の方にもダブルを入れたので、さかんに拍手が。あの一瞬のお休みは脚落ちだと思うんですけど、あまりにナチュラルかつスムーズに次の回転を始めたので、新手の振付かと思ったほどでしたよ。ある意味、すごいです。
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by koharu-annex | 2010-04-24 18:10 | バレエ(Kバレエ)
先日アップした記事で、私は、フィギュアスケートが「スポーツ」か「芸術」か、という争点の立て方はトンチンカンなのではないか、という意見を書きました。

実は、これって、前提でして。私が本当に書きたかったことは、この続きです。

ちょっと昔のことになりますが、五輪の女子フリーが終わった後ですよ、私の知人がですね、「真央ちゃんのプログラムはチャカチャカ動いててうるさかった。キム・ヨナのは滑らかでスムーズだった。真央ちゃんを応援してたけど、キム・ヨナが滑らかだったから、芸術性ではヨナの方が高いと思った。」とおっしゃったわけですよ。

同種の意見は世間でよく見受けられます。極端なものになると、「フィギュアスケートは『芸術』カテゴリに移すべき」という考えを前提に、概要、「ジャンプは跳ぶ前に体が前に沈むので、流れを止めてしまって滑らかさを損なう。これは芸術的観点からはマイナスである」とした上で、あげく「3Aを演技の中に完璧に溶け込ませたら芸術として認める」という趣旨の主張をする荒唐無稽な説も。

上記のうち「芸術」カテゴリ論がトンチンカンだというのは、以前の記事に書きましたので今回は触れません。今回取り上げたいのは、上記のような考え方は、お話している人達はあまりにも気楽に話しているので自覚がないのかもしれませんが、結論として、「大きな動作あるいは多数の動作をしないで『滑らか』な見かけを作ること」が、「『芸術』の唯一の条件である」、と言っていることと同じであるけれども、それはひどく奇妙だ、という話です。

ちなみに、上記のような考え方は、ヨナ選手と真央選手に関連させて初めて生じたものではなく、伊藤みどりさんの頃から、しばしば世間に噴出しています。私は、この考え方は、はっきり言えば「誤解」だと考えています。今回は、この昔からある「誤解」を取り上げます。したがって、ヨナ選手の演目の評価からは外れますので、その点よろしくご了承ください。

では、始めさせて頂きます。今回も長いので、お茶でもご用意なさって下さいまし(笑)。何なら何日かに分けて読むとか。

まず、あらかじめ確認しておきますが、「滑らかさ」の中には、「実はとっても高度な技術を必要とするけど、その技術の存在を知らないとそれを全く認識できずに、単に『滑らか』という印象しか残らない」という種類の「滑らかさ」というのがあります。(最近、私が観た例では、パリ・オペラ座の東京公演「ジゼル」で、マリ・アニエス・ジロによる脅威のパドブレの足さばきによるレールの上を引かれているようなミルタ、というのがありましたが、これはまた別の記事にて。)

しかし、私が問題視している考え方は、裏にびっくりおったまげな技術(たとえば上のジロのパドブレに匹敵するようなスケーティングの技術)がある「滑らかさ」を褒め称えているわけではないことは、その言いっぷりから明らかです。彼らが言っている「滑らかさ」というのは、滑らかな印象の中でもとりわけ、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」です。

この種の「滑らかさ」というのは、高度な振付でないスローテンポの舞踊、ぶっちゃけて言えば、バラード系の音楽に、ダンサーが音楽のテンポに完璧に合わせられる程度の平易な振付を施した舞踊であれば、ほぼ間違いなく得られる典型的な印象、といえます。逆にいえば、そのような舞踊で、滑らかな印象を残せない表現者はあまりに技術が稚拙すぎて、お話にならないので議論の俎上に乗りません。バレエにおいて、この「滑らかさ」を用いる代表的な例は、多人数で踊る群舞が、枯れ木の賑わい的に使用される場合です(そうでない群舞もたくさんあります。念のため)。しかし、この「滑らかさ」だけをもって、ソリスト以上のダンサーの完成度の高い舞踊を成立させることは、ほぼ有り得ません。観客を魅了する要素が圧倒的に足りないからです。

もちろん、「滑らか」な印象を残す演目が、芸術の一種である「体を使った表現」の1つの類型であることは確かです。しかし、あくまでそれは一類型です。裏に高度な技術がある「滑らかさ」だって、この類型の中の一種類に過ぎない。技術と要素がぎっしり詰まっている舞踊も、それがあからさまに分かるものも含めて、立派な「体を使った表現」の一類型です。

したがって、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」が「好き」というのはおかしくない。だけど、「だから芸術だ」というのは、それ以外の類型の「体を使った表現」を、その芸術分野から排除することを意味し、明らかに奇妙です。どれくらい奇妙かというと、「静物画だから芸術だ。」といっているのと同じくらいに奇妙です。「静物画だから芸術だ。」という考えは、風景画、人物画、抽象画などの他の類型の絵画を、「絵画芸術」という分野から排除する意味を持っています。しかし、こんなこと言う人、いないでしょう?

問題は、絵画の分野でそんなアホなことを言う人なんていないのに、どうしてフィギュアスケートの場合には、突然、「滑らかだから芸術」、なんて言う人が出てくるのか、という点です。

私は、その答えは、ずばり、経験値だと思っています。

「滑らかだから芸術」と言っている人は、その意味を深くは考えてないんだろうけど、絵画については「深く」考えないでもアホなこと言わないんですよ。なんで、アホなこと言わないかというと、経験則上、絵画にはいろんな種類があると誰でも知っているからです。

ところが、フィギュアスケートに関してはもちろん、舞踊に関しても、多くの人は絵画に比べて圧倒的に鑑賞経験が少ない。当然、知識も浅薄で、「民族舞踊」「社交ダンス」「バレエ」というようなカテゴライズくらいしか知らない。例えば、「静」のイメージ・「動」のイメージという分類や、「演劇的な演目」・「音楽的な演目」という分類の仕方で、ジャンルを越えて仕分けできることを、多くの人は知らない。

バレエのことを、よく優雅・滑らか・ゆったりなどと言っている人がいますが、バレエにはそうじゃない演目だってたくさんある。むしろ、主役のソロの踊りの多くは「優雅」という言葉の印象よりも、ずっとずっと、かな~りアクロバティックだと思いますよ。民族舞踊、社交ダンスなど他のジャンルの舞踊でも、何度かちゃんと鑑賞すれば、一般的なイメージと異なる演目が多数存在することはすぐに分かります。お能だって、静かで眠くなるような演目ばかりじゃなく、主役が空中で回転するようなドッタンバッタンな演目だってあるんですよ。だけど、舞踊を鑑賞しない人は、そんなこと全く知らない。

一般的に、鑑賞経験がないと、「美」を感じる感知センサーは、勢い、その程度が「それなり」のレベルにとどまってしまいます。自分がそのジャンルについて持っているイメージに合うものだけを、無意識に取り出してしまうからです。しかも、人間というのは、自分が綺麗だと思ったことのみ「美」であると考えてしまう傾向がどうしてもある。そうすると、他の類型にも「美」が存在するという知識がなければ、自分のイメージや好みに合う類型のもののみを「美=芸術」である、とする思考に陥りがちです(なお、美=芸術かどうかはとりあえずここではおいておきます)。

さらにたちの悪いことには。

舞踊において、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」という種類の「滑らかさ」というものは、実は、ひっじょーに、一般受け・素人受けしやすい。

しかも、フィギュアスケートの場合、鑑賞歴が浅い人ほど「氷の上」ということが頭から離れませんから、なおさら「スケートにおける芸術」=「滑らかさ」という思考が、当然のように形成されると思う。
(じゃあ、スピードスケートは芸術的じゃないの?というツッコミは考えないんだろうと思われます。ちなみに、私は、個人的にスピードスケートのコーナリングには、時に非常に「美」を感じるんです。なので、同じスケート競技の中でも、スピードスケートと異なるフィギュアに特異な芸術性として、重きを置くべきなのは、舞踊と同種の「美」だと思っています)

と、ここまで書いておいてなんですが、「滑らか」さを単純に綺麗に思っている人はまだいいんですよ。私が、あらら…と思っているのは、「何もしていないことから、何かを感じるのがえらい。」という、意味不明の評論家ぶった考え方から、「滑らか芸術論」を唱えることです。これは・・・正直、およしになったほうが良いと思います。とても格好悪いです。
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by koharu-annex | 2010-04-22 17:55 | 考察(フィギュアスケート含む)
本日、最も動揺したニュースであります。
あまりに動揺しちゃったので、途中まで書いた記事を放棄して、今日はこちらをアップします。

織田選手が、近々、ご結婚する見通し・・・・(こちら→Excite エキサイト : スポーツニュース

いや、確かにおめでたい。ご結婚というのはめでたいことです。それにお相手はかねてから織田選手を支えてきた女性として報道されていた、中学の同級生ということじゃありませんか。美しいお話です。きっと素晴らしい娘さんに違いない。

しかし、なんで、こんなに動揺するのか。なんで、「え?織田君、またやっちゃった?」と思ってしまうのか。というより、ずばり、わたくしは、

ちょっとちょっと信ちゃ~ん、お母さんにちゃんとお話ししてる~?
大丈夫~?なんなら、アタシが話してあげようか~~~?


と思ってしまいました。はっきり言って、親戚に1人くらいいる、むしろ迷惑なおばちゃん状態。

なんなんだろう、織田選手から感じられる、「取るべき手順の1つか2つ、ゼッタイ落としちゃってるに違いない」という、微妙な不安感。さらに、それを見越して先に手を差し伸べたくなる、おせっかい本能刺激感(母性本能をくすぐる、とは言いたくない)。しかも、思わず、「ちょっと、信ちゃん、大丈夫なの~?」と、何故か、ちゃん付け・タメ口で呼びかけたくなる、おとうと(弟)感、というか。

う~~ん、これは分析の価値アリ。少なくとも、彼の演目を検討する際の情報として、心のメモ帳にメモしておく必要があるな、と。


なんだか文句つけた感じになりましたが。

早い時期の結婚や学生結婚って、皆が心配するより良いものだと思いますよ。
どうぞ、お幸せに!
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by koharu-annex | 2010-04-15 00:00 | フィギュアスケート男子
【アップ後、末尾の青字の部分を加筆しました。】

一般的に、バレエ、ダンス、舞踊などの「体を使った表現」の場合、表現者の行う具体的な表現は、その全てが、体を使う確かな技術に裏打ちされたものであることが理想です。したがって、「体を使った表現」においては、

動いて、なんぼ

動けて、なんぼ というのが基本です。

私達は、①その「動き」に惹きつけられるとともに、②その「動き」に表現者が込めた情感を感じ取り、心を揺さぶられるわけです。

そうであるからこそ「体を使った表現」では、観客に①と②の「両方」を与えることを目的とします。表現者はその目的に沿って、①を与えるために技術を磨き、②を与えるために表現力を磨くのです。

表現者によって、与えられる①②のバランスの類型は多々あります(前回の記事で述べた「技術が高い人は、その有する表現力が過小評価される」というのは、①が高すぎて②が相対的に低くなるという、1つの典型例)。しかし、①を与えることを放棄すると、②を与える前提が消えてしまいますので、①を放棄することは決してありません。

念のため確認しておきますが、①の「動き」には技巧的な動きも含まれます。例えばバレエの男性ダンサーのソロのヴァリエーションの基本は、

とんで はねて 回ってなんぼ

ですから、跳躍と回転に関する技術も当然に含まれます。女子のソロの場合には、

ステップ踏んで 回ってなんぼ

ですから、技巧的なステップの技術と回転の技術が、当然に含まれます。

多くのバレエダンサーが「テクニックは表現のための手段である」という趣旨の言葉を残しています。この文章は2種類の意味に解釈することができます。1つは、「テクニックが豊富であれば、表現手段も豊かになる。」というのもので、もう1つは「テクニックは、あくまで表現の手段に過ぎない。」というものです。しかし、いずれの意味にしても、テクニックの保有は議論の大前提です。

だからこそ、表現者は、たゆまぬ技術の向上と維持に努めるわけです。年齢や怪我のために、ある技術が使用不能になったら、何らかの技術で代替するんです。代替できる技術が少なくなり、表現手段が限られてきたら・・・自分の理想の踊りができなくなったとして、多くのダンサーが引退していきます。舞台に直立で立っているだけで何かを表現していると感じられるダンサーですら。

逆に言えば、ダンサーが体を使う技術の向上(なお、一定年齢の経過後は「技術の維持」になり、更に年数経過後は「技術の劣化速度の遅延」になる)を自らやめてしまった場合、表現の手段たる技術は喪失される一方ですから、評価はあからさまに下落します。というか、観客が評価する以前に、役がつかなくて舞台から消えてますわね。

「体を使った表現」という芸術は、このような構造になっているので、見せる側からすれば、表現者が獲得した技術を観客に見せない、などということは有り得ないんですよ。その技術がスーパーであればあるほど、そうです。振付家が、特定のダンサーの特定の技術を敢えてクローズアップして見せるために、わざわざ特別に演目を振付けることすらあるんです。

さて。
フィギュアスケートが「スポーツ」なのか「芸術」なのか、という議論があります。しかし、仮に「スポーツ」ではなく「芸術」にカテゴライズされたとしても、フィギュアスケートが「体を使った表現」の一類型である以上、上記と同じことです。つまり、体を使う技術は必須ですから、その技術の向上をはかることは当然です。また、見せる側からすれば、スケーターの持っている技術を見せない、などという選択は、本来的には有り得ない。

もし、この本来の姿が捻じ曲げられ、表現者が自分が有する技術を見せないという選択をせざるを得ない事態、あるいは技術の向上そのものを否定するような事態が常態化しているならば、それは何かがおかしくなっている、ということです(その「何か」とは、採点基準が筆頭に上がるんでしょうけど、これには深入りしません、というか、できません。。。)。

繰り返しますが、これはフィギュアスケートが「芸術」カテゴリーだったとしても、同じことです。「体を使った表現」である以上は、体を用いた「技術」の向上・維持とその観客への披露は、絶対的であり、否定される理由は一切ありません。

したがって、私は、フィギュアスケートの技術の評価に関する議論において、フィギュアが「スポーツ」か「芸術」かという争点の立て方をするのは、トンチンカンなものだと考えています。スポーツではなく芸術と定められたとしても、技術は変わらず、表現における最も基本的な基礎として、あるいは表現手段そのものとして、正当に評価されるべきだからです。

中途半端なので、次回に続きます。
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by koharu-annex | 2010-04-09 00:16 | 考察(フィギュアスケート含む)
こちらは、本館の4月2日付け記事を、あらためてアップしたものです。


女子フィギュアスケート世界選手権フリーがスカパーなどで放映されていた夜中、ヨナちゃんのパフォーマンスが終わった後に、例の友から電話があったことは、以前書きました(こちら)。

その電話において・・・

友 「今、心配しているのは、未来ちゃんが金で、真央ちゃんが金を取れないかもしれないってこと

私 「可能性あるねえ。未来ちゃん、ポテンシャル高いもんねえ~

友 「そう?未来ちゃんは、完成度という点では、まだまだって感じがするけど。

私 「まだまだの点はあっても、あれは大器でしょ。まさにスター誕生というか。あの勢いが勝つってことは有り得るよ。

友 「いや、私が心配しているのはそういう話じゃなくて、変な採点方法で真央ちゃん包囲網が作られて、真央ちゃんよりずーーっと先があるのに未来ちゃんに金持ってかれて、今回もまた勝てないんだったら、真央ちゃんが可哀相すぎる!っていう話よ~

ということで、微妙に友と私との間で、観点にずれがあったことが判明(苦笑)。 

友が言ったのは感情論ではなく、ウィアー選手の発言(趣旨としては、フィギュアは政治的なスポーツで、その観点から自分は五輪ではメダルが取れないとわかっていた、というもの)や、客観的状況に照らしても、フィギュアスケート界がある種の思惑で動いている世界であることには間違いがないから、史上初めて日本男子(高橋選手)が金を取っている以上、女子にまで金を与える必要はない、という力学が働くのではないか、という懸念に基づくものです。(ウィアー選手の上記発言の続きが素晴らしく、彼が人格者であることを物語っています。どうぞ、ニコニコ動画のこちらをご覧下さい。)

根深いですよね。友の懸念を妄想と切り捨てることができないほどの、採点における違和感(世界選手権の女子についてはこちら参照)。日本スケート連盟が、改正ルールを国際スケート連盟に提案するとのことだけど(こちら)、どうなることやら。

それはさておき、友の声の向こうに、「Koharuちゃん、まさかとは思うけど、真央ちゃんの評価低い~?」、という呻きが聞こえたような気がするので(真正面から聞きにくいんだろうなあ…)、今回はその点についてちゃんと書こうかな、と。今まで、敢えて辛口に書いたこともあるけど、結論から言うと、私は真央ちゃんの表現力を、実は、評価してる。でも、ヨナちゃんの表現力の化けの皮をはいだ同じ口でそれを言うと、単なるえこひいきに思われるのが落ちなので、真正面から書くのがはばかられたわけですよ。

でもね、えこひいきと思われても、友に疑念を持たれない方が私には大事なので、今回は書くことにしました。友からお菓子と本をまた贈ってもらったし(笑)。もちろん、ご存知のとおり、私にはスケートの技術的側面や採点基準についての知識が圧倒的に不足しています。そのため、これらについては言及できませんので、あくまで表現力、なかんずくバレエや舞踊に通じる表現力に特化した記載となりますが、悪しからずご了承下さい。

さて。
私は、真央ちゃんは、「自分ではない何者か」を天然で表現できる、という能力については持ち合わせていないと思っています。高橋さん・鈴木さん・ウィアーさんの3人は、この能力の保有者だと思います。また、長洲さんにも、その可能性を感じます。(なお、私の言う表現者の能力については、過去に書いたこちらの記事をご参照下さい。)

しかし、真央ちゃんは、舞台上で(アマチュアのフィギュアの場合は試合で)、①自分自身を、②しっかりと外に向かって、表現できる、というレベルの能力はきちんと持っています。

①がヨナちゃんと、②が安藤さんと、それぞれ異なるところです。ヨナちゃんが、①自分自身を表現できないことは、過去記事に書きました(こちらこちらなど)。安藤さんは、エキシビションだけを見ると、外に向かって表現できるポテンシャルがあるように思えますが、試合ではかなりダウングレードします(あぁ、採点基準のような言葉を使ってしまった)。これは別途検討の余地ありです。

また、彼女は表現手段が豊富ですね。体が柔軟だから、様々な振付が可能だし、スパイラルのあの伸びやかなポーズは、あまりに正統派でほれぼれする。高橋さんや鈴木さんほどの、あからさまな舞踊感はないにしても、スタミナがあるから、パフォーマンスの後半でも、スピードが落ちず、かつ、振付のこなしが指先までの神経使いや首の角度にまで行き届いていて、手抜き感や隙が全く無く、見る側としては安心して「感じる」ことに集中することができる。

そして、ここからが重要ですが、真央ちゃんの有する①自分自身(自己)というのが、あまりに大きくて特殊なので、②外に向かって表現されるものも他の人とはスケールが違う、ということです。

私は、オリンピック後のこちらの記事のグループ分けで、プルシェンコさんについて、「表現力はBですが、強烈なカリスマ性でA以上の印象を残せる稀有な存在」と書いたのですが、真央ちゃんの「自己」の印象深さは、このプルシェンコさんに通じるものがあります。このような印象的なカリスマ性や自己を持っている表現者は、実は案外少なくて、とても貴重な人々です。

誰の「自己」であろうが、その内容を具体的な言葉で表現するのは難しいですが、それでは話が前に進まないので、私が感じる真央ちゃんの「自己」のいくばくかを無理やり言葉で表現してみました。

   ピュア、邪心が無い
   ノーブル、上品
   誇り高い、凛とした、強い自制心
   他者を尊重する
   他者と比べて競うのではなく自分と闘う
   競争心・闘争心が少なく逆に向上心が大きく存在する
   ただただまっすぐに自分が理想とする上を目指している
   その理想にけがれがない


これらはいずれも、世間において「良きもの」と捉えられている要素ですが、真央ちゃんの場合、どれもが比較的高度なレベルで融合していると感じます。そういう意味では俗人とはレベルが違った御仁ですね。これは彼女のお顔が、広隆寺の弥勒菩薩にそっくりだから、という理由だけでは説明がつかない。

また、彼女には、

   自分の決断・思想を貫く精神力が強靭
   思いっきり頑固


という、非常にストイックなアスリート(イチローとか藍ちゃんとか)に見られる要素も強烈に感じます。

そして彼女の意識とは関係ないんですが、受け手側として決して無視できないものを彼女は持っています。

それは、あの作り物ではない本物のお姫様オーラ。

幼少時から今までず~っと、いつも(←そう、「いつも」というところがすごいのよ)、キラキラした金粉が周りに飛んでるような、彼女が生まれながらにして持っている、あの雰囲気です。彼女の天性のアイドル性&スター性の源ですわ。

この姫オーラ、多くの女子が憧れて欲しがるものだけど、後付けで獲得できるものではありません。もちろん、高校や大学に入ってお化粧するようになったとか、熱烈な恋をしているとか、メディアに出始めたとか、環境・気持ちの変化によって後天的に「華」を得ることはあります。しかし、生まれつきのものか、環境や気持ちの持ちようで後天的に(且つたいていは一時的に)得たものか、という違いは、オーラの本質性において圧倒的に違う。

この姫オーラというのは、ことに表現者にとっては、他のものでは絶対に代替が利かない大きな力であり、まさに神様からのギフトです。もちろん役柄にもよりますが、バレエはもちろん、たいていの舞踊・舞台系における多くの演目で、極めて有利に働きます。

 ずるい?

はい、そうかもしれません。でも、仕方がないですよ。これは、ほんの極一部の選ばれた人にしか与えらないので、本来的に不公平に存在するものなんです。そもそも体を使った表現者の場合、遺伝子的に筋肉質か、脂肪がつきやすいタイプか、関節のソケットが浅いいわゆる二重関節を持っているか、ソケットが深くてどんなに柔軟をやっても180度以上の開脚ができないタイプか、というような体質・体型にまつわる要素によっても、かなりの不公平があるわけで。

とはいえ、この姫オーラタイプのライバルと競わなくてはならない人は本当に大変で、それこそ「ずるい!」と言いたくなるでしょうな。だって、努力ではどうしようもないんだもの。そういう意味では、安藤さんもヨナちゃんも、そりゃ大変ですわ。2人がそれぞれああなったのも(誤解を招く言い方だな。「王道路線というよりは、むしろ独自の表現の道を開拓せざるを得なかった」と言いましょうか)、ものすごく分かる気がする。
 
真央ちゃんの姫オーラについては、よくある姫オーラと異なる特徴があります。それは、上で述べたような真央ちゃんの「自己」と相まっているため、姫オーラの奥に、気高く且つ慈愛に満ちた女王オーラの萌芽があることです。

たいていの姫オーラはですね、「永遠のお姫様」的なものなんです。ともすれば、ぶりっ子、幼稚、勘違い、に転びそうな危険性をもっていたりする。ところが真央ちゃんのは、姫が成長して上品で風格のある女王となる姿をほうふつとさせる姫オーラ。あんなオーラを持つ女子なんて、世界中の表現者を探しても、そうそういませんよ。

ということで、真央ちゃんは、「自分ではない何者か」ではなく、自分自身を表現しているに過ぎないんだけど、他の追随を全く許さないほど彼女の「自分自身」がブリリアントな特殊性を有するため、外に表出されたもののスケールが桁違いに大きく、その結果、高い表現力を持つ選手のパフォーマンス以上の強い印象を残せる、というのが私の結論でございます。そして、このような「自己」と圧倒的な姫オーラを持つ彼女は、女性表現者としての表現の幅が極めて広い、といえる。これらに、表現手段の豊富さと、激しい振付を最後まで完璧に成し遂げられる体力と集中力があることも、あわせ考慮すると、やはり、彼女の表現力は相対的にかなり高い、といえるのであります。

ところで、真央ちゃんの特殊な自己とオーラを、演目に生かさない手はありません。その観点から言うと、「鐘」という演目はまさに真央ちゃんのもので、余人をもって代えがたいと思います。真央ちゃん自身が「鐘」にこだわったのも、意地になったというものではなく、ご本人はおそらく意識していないであろう、あの女王の萌芽と「鐘」という演目が共鳴したのではないかと思っています。

ただ。
演目は時を選ぶ、ということも事実です。

女子のフィギュアスケートは、アマチュアで活躍できる期間が極端に短く、20代半ばでベテラン選手と言われてしまう。40代でも小娘を演じられるバレエとは根本的に時間の流れが違う。そうである以上、客観的にはまだ若い20代でも、フィギュアの世界ではベテランと目される年齢で、いかにも若い子向けの演目では、「痛さ」が出る可能性がある。これは、逆に、客観的な年齢ではまだ早いと思われる演目でも、フィギュアに限れば比較的早い段階でOK、ということも意味します。しかし、演目に追いついていない背伸びした印象が、多くの場合ある種の違和感を伴う以上、私は個人的には、無理をせず、その時々の年齢に合致した演目を選択して欲しいと思っています。

ここで思い出すのが五輪。あのときは、若干、「鐘」と真央ちゃんの実年齢の齟齬が浮かび上がってしまった。あぁ、惜しい、この世界をこの子は持っているけど、ここではまだ早いという印象が出てしまった・・・と感じました。もちろん、世界選手権において、驚異の迫力でもってあの齟齬を見事に覆い隠した事実に照らせば、五輪のときもその齟齬を見せないで済んだ可能性は大いにある(この点の真央ちゃんのポテンシャルには、ただただ驚嘆するばかりです)。

でも、私は個人的には、「鐘」は真央ちゃんが引退する時にこそ合う演目だと、今でも思っています。 あの演目の、有終の美を飾る感というか、これまでの全ての出来事を神々しいものに昇華させるイメージは、別格だからです。
 
長々書きました。最後に、以前書いた文章をあらためて書いておきます。

彼女が、ここ数年、キム・ヨナちゃんと比べて表現力が劣っていると言われているならば、考えられる理由は、ただ一つ。

「スケートの技の技術が高い」から。

バレエの世界でも、ギエムやタマラ・ロホなど、飛びぬけて技術が高い人は、その有する表現力が過小評価されてしまいます。その類の被害者だな~という印象を受けています。

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by koharu-annex | 2010-04-06 00:12 | フィギュアスケート女子

閑話休題

こちらは、本館の3月30日付けの記事を、あらためてアップしたものです。

 
 それにしても、と思う。

 ヨナちゃんが、母国に利用され続けるのは可哀想過ぎる。

 かのカタリーナ・ヴィットさんも、母国東ドイツに利用されつくした挙句、壁の崩壊後はバッシングの嵐。 結果、アメリカへ移住するしかなかった。
 アメリカ移住後のテレビインタビューで、不自由な英語で、「ノー・ポリティック!」と手で遮るように言っていた、彼女の横顔を思い出します。

 もし、ヨナちゃんが、母国のスケート連盟、冬季五輪招致委員会、サムスンや現代などの大型スポンサー、その他CM契約をしている複数(トリノから帰って10社のCM撮りが待ってるとか)の企業等、様々な関係団体の意向で、本人の希望に反して、引退時期を延ばされたり、現役続行を強要されたり、はたまた一旦引退しても五輪前に現役復帰させられたりすることがあったならば、本当にお気の毒です。
 
 「自分だってそういう団体のおかげで甘い汁吸ってるんだから、それくらいガマンしなくちゃ。」と言うのは簡単だけど、いつのまにか取り込まれていたであろう、まだ20歳前のヨナちゃんに、全て甘受しろと言うのは酷というもの。

 私は、前回、ヨナちゃんの底意地の悪さを敢えて増幅して、表現に結び付けろとけしかけました。
 これは表現の鑑賞者に徹した際の言葉で、ひどく意地悪に響いたかもしれません。 確かに私は、鑑賞者として表現者を見るとき、冷徹といえば冷徹、残酷といえば残酷、そして意地悪です。

 が、それはそれ。これはこれ。
 ヨナちゃんが、客観的には、ここ数年採点されているような図抜けたスケーターではなくても、大きな大会で表彰台を争うレベルのスケーターであることは間違いなく、そのようなスケーターが、自分の将来について、自分の意思とは全く別の事情によって決断を迫られることがないよう、心から祈っています。
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by koharu-annex | 2010-04-05 23:07 | フィギュアスケート女子
こちらの記事は、本館の3月28日付の記事を、あらためてアップしたものです。


 イタリアはトリノで行われたフィギュアスケート世界選手権。
 日本時間の夜中だったのですが、キム・ヨナちゃんのフリー直後に、友から電話がかかってきましたよ(笑)。

 スカパーはもちろん他のケーブルテレビでも放映していましたし、PCでもカナダの放送が無料で見られるんですね。知らなかったわ。うちのケーブルテレビも調べたけど、ベーシックプランでは見られないチャンネルだったので、旦那がPCでカナダの放送を見つけてくれたので、その後、視聴。

 うんうん、なるほど。

 オリンピック後、ワタクシはこちらの記事で、現行の採点方法について、
 「あれじゃ、アマチュア「競技」の採点ではなくて、平均して 7~8割の実力を常に観客に観せることができるかということを前提にした、プロ「興行」の採点」
 と評しましたが、これは間違いですね。

 プロは、興行において失敗しちゃいけません。失敗しない演技を「常に」見せることが大前提です。この大前提があるからこそ、10割の力ではなく、7~8割の力だけれども、常にほぼ完全な演技ができるよう構成するわけです。

 そうである以上、「プロ興行の採点」においては、技術的に致命的な失敗をした場合や、表現がダメダメな場合には、採点が低く抑えられて当然です。
 ところが、キム選手は、LPにおいて、2度もジャンプを失敗したのに、そしておそらく故意に表現を放棄した適当な踊りだったにもかかわらず、選手の中で最高得点。

 これは、「プロ興行の採点」ではなくて、「キム選手にはどんなことがあっても目をつぶって加点する採点」としか言いようがない。

 このわたくしの結論に対し、「キム選手の表現力を評価していない。」というコメントがある方は、ご面倒ですが、過去記事(特にこちらこちら)をご覧下さい。 わたくしの目から見て、キム選手には、他の選手に比べて、「常に」大幅な加点が許されるような表現力はありません。

 わたくしは、フィギュアスケートの「表現力」について、あくまでスケートである以上は、同じスケート競技であるスピードスケートにすら存在し得る、スピード感・滑らかさ・しなやかさというものも評価の対象にはなるとは思っています。が、それ以上の評価の対象として、バレエやダンスと同類の表現力を求めて然るべき、と考えています。

 したがって、わたくしの基準から申し上げれば、キム選手が唯一表現できる「硬質なセクシーさ」が表現しきれていなくても、その「滑り」のみから「表現力」をお感じになる方は、スピードスケートの滑りにも、時として高い「表現力」をお感じになるはず、ということになります。
 しかし、そのような結果は、フィギュアスケートの「表現力」の判定としては奇妙じゃございませんこと?

 ついでに申し上げておきます。
 キム選手を攻撃する方が、時折、「キム・ヨナ選手の滑りは、フィギュア・スケートじゃなくて、ダンスだ!」とおっしゃることがあります。 
 ここでの「ダンス」は、おっしゃる方によって、同じフィギュア・スケートの「アイスダンス」を指すこともあれば、踊り一般の「ダンス」を指す事もあるようです。
 おそらく、これは、キム選手のけれん味のあるしぐさ(「パチン」と「バキューン」)の存在と、「硬質なセクシーさ」が感じられることを念頭に置いているのだとは思います。
 
 しかし、この発言、わたくし、とっても許し難いの。

 わたくしは、この発言を全てのダンサーへの侮辱と感じてしまいます。したがって・・・





ダンスをなめんな、ぼけぇっ!



 と思ってしまう次第(下品で失礼!)。

 あの程度の表現手段しか持たないキム選手に対し、ダンサーの呼称を与えることなど、わたくしは、多くのダンサー達のために、絶対に絶対に、ずぇったいに! できません。

 よろしいかしら。
 わたくしの中で、「ダンサー」という呼称は、「芸術家」と等しい言葉です。
 バンクーバー五輪と今回の世界選手権に限れば、フィギュアスケート選手で、ダンサーの呼称を与えてよい選手は、以下の3選手のみです。
 
 ● 高橋大輔さん
(今回の世界選手権で確信しましたが、彼は図抜けていますね。いますぐダンサーに引き抜きたいくらい。笑)
 ● 鈴木明子さん
 ●  ジョニー・ウィアーさん

ダンサーの有力候補は、以下の選手です。

 ● 長洲未来さん
 ● エイドリアン・シュルタイスさん
 
それ以降の候補順位は、こちらの記事のグループ分けをご参照ください。



 さて、前回、わたくしは、以下のように締めくくっております。

 「私が、いっちばん好きなのは・・・こういうダンサーにはこういう演目を、と考えることなんです。
 なので、以前、ヨナちゃんには「カラボスを」と言いましたが(こちら)、別途、日を変えて、これをもう少し説明させて頂きたいと思います。」
(*ここで「ダンサー」という言葉を使っているのは、一般論ですから!)

 ということで、今回は、キム・ヨナちゃんにぴったりな演目を検討したいと思います。

 前回書いたように、キム・ヨナちゃんの表現の幅は「硬質なセクシーさ」という極狭いものです。 
 この結論に至った時、すぐに私の脳裏に浮かんだのは、ミュージカル「シカゴ」のロキシー役。 ・・・でも、私、19歳のヨナちゃんに囚人のロキシー役を薦めるのは、正直、気が引けていたのです。

 しかし、今回の世界選手権ですよ!
 収穫がありました。
 
 ヨナちゃんって、
 あの年齢ではあり得ないほど、図太くて、ふてぶてしい!!!

 私は、表現者に性格の良さなど求めないタイプです。
 表現がよければ、それでよい。
 そんな私にとって、ヨナちゃんが、多くの人にとってはムッとするほど図太くて、イラつくほどにふてぶてしい、謙虚さとは無縁で、むしろスポーツ選手の性格としてはマイナスと評価される可能性が大きいという事実は、彼女にぴったりの演目を検討する上で大変有益な情報です。

 だって、ロキシー役をふってもちっとも可哀想じゃないし、むしろ、セクシーさに、あの図太さとふてぶてしさがあったら、ロキシーはまさにはまり役になるんですもの。

 ということで、是非、ロキシーに挑戦して欲しいーーー
 「下品」と評価する人は必ず出てくるけど、そんなの007の時から無視しているんだし。しかも、007のセクシーさを肯定した人の多くは、評価してくれると思いますので、それほど恐れることはない。

 なんといっても、アマチュアのフィギュアスケート選手で、ロキシーのセクシーさを躊躇なく前面に出してやり切れる人は、ヨナちゃん以外にいないから、あまりに貴重。 
 19歳とか20歳でやれる人、特にアジア人は、おそらく100年たっても出てこないと思う。

 ミュージカル「シカゴ」をご存じない方は、Youtube のこちらの動画をご参考になさって下さい。 絶対に納得するから!

 次に、私が当初から申し上げていた、カラボス(バレエ「眠れる森の美女」より)。
 カラボスは、お姫様に呪いをかける邪悪な妖精あるいは魔法使いですが、近年、格好よい斬新な演出が増えています。が、その根っこにあるのは、「悪」です。
 
 ヨナちゃんは、陰と陽でいえば、確実に「陰」です。
 荒川さんも「陰」ですが、ヨナちゃんの「陰」とは少し違う。荒川さんのは孤高かつ崇高な「陰」です。
 ヨナちゃんの「陰」は、「悪」に通じやすい種類の「陰」です。
 そうなったのは、真央ちゃんに対する「陰」な感情の存在が大きい。

 すなわち、ヨナちゃんは、ジュニア時代はずっと真央ちゃんの後塵を拝していました。
 その真央ちゃんは、誰から見ても、キラキラとした金粉をいつも振りまいているような、生まれついての愛らしいお姫様。
 ヨナちゃんは、自伝の中で、「どうしてこの子が私と同じ時代に生まれてきたんだろう」(うろ覚えです。表現は正確じゃないかも。)という趣旨のことを書いているほどです。

 この手の「陰」な感情を、ちゃんと真正面から捉えて欲しい。
 「私は何もかも手に入れている」(今回の世界選手権のインタビュー)という風に、奥歯に何か挟まったような意味不明の言葉でごまかさないで。 
 ヨナちゃん、あなた、本当は、


ここまで何連勝も私がしているように、私の方が『上』なの。
子供の頃みたいに負けてないのよ。
圧倒的に、真央が『下』なのよ。
今回は真央が勝ったけど、それは特別な事情があったから。
ジャッジも私の味方だし。
真央がどんなことをしようと、全て無駄よ。
今後、私に勝てることなんて有り得ない。
永遠に私より下であがき続けるがいい!
クイーンは、私なんだから!

と思ってるでしょう?

 そう思っていることを、ちゃんと真正面から認識してちょうだい。
 誰しもが「お姫様」と目している真央ちゃんを、憎んで、さげずんで、見下してちょうだい。 そうすると、ヨナちゃんは、「カラボス」の気持ちになれる。

 ヨナちゃんは、本来、表現力の地力が貧しいので、「硬質なセクシー」以外については、自分の持ってる感情を増幅させて、その増幅させた感情を外に表出するという方法しか残っていない。
 これが会得できないなら、ヨナちゃんは、二流以下の表現者で終わります。
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by koharu-annex | 2010-04-05 20:09 | フィギュアスケート女子
こちらの記事は、本館の3月8日付記事を、あらためてアップしたものです。

 キム・ヨナちゃんは、昔から、表現手段が3種類に限られていたわけではありません。
 2006年のLP「あげひばり」の頃の映像(こちら)をみると、この頃も柔軟性がある体ではないけれど、今よりずっと肩・肩甲骨が回っています。また、いろんな表現手段に挑戦しているし、指先まで気をつけようとしているのが、はたからも見て取れます。
 
 私は、この頃の彼女の「静謐なしなやかさ」、というものを最大限評価していました。
 もちろん、表現力という観点からいえば、まだまだ感があるとは思っていましたが、まだ16歳ですしね・・・雰囲気が出せれば合格点でしょ(ちなみに、長洲さんは16歳だけどずっと表現力を感じるので、ポテンシャルがもともと違うんだと思う。)。

 ヨナちゃんが「振付をしなやかに踊る」というレベルを超えて、自分や他者を表現できるようなポテンシャルを持っていて、実際にそれができるようになれば、ドイツのシュツットガルトバレエ団で活躍する、著名な韓国人バレエダンサー、スージン・カン(参照記事はこちら)のフィギュア版になれるかも、とも思っていたりして。

 ところが、ヨナちゃんは、その後、「『あげひばり』は難しいから二度と滑らない。」と言ったと伝えられています。「あげひばり」の頃、腰痛のことは解説者がもらしていたので、その関係かもしれません。
 
 今回、Youtubeで、ヨナちゃんの「あげひばり」以降の経過を確認しましたが、「あげひばり」自体を滑らないばかりか、同演目で挑戦していた様々な表現手段を、その後完全に放棄したように見えます。あわせて、指先へ繊細な気遣いを行う努力も一切なくなっていったように見えます。腰痛の悪化・再発の懸念が大きいのかもしれませんが、非常に残念です。
 
 とはいえ、チーム・ヨナとしては、体が硬くて表現手段が少ないという欠点をフォローし、できれば硬さがプラスに働くようなミラクルを検討をしなくてはいけない。
 それに対する答えが、セクシーさを出すこと、じゃないかと思う。
 
 一般的に、柔軟な体や表現力の地力がある人がセクシーさを出すと、色気が "too much " に転びがちです。
 例えば、以前、長洲さんの記事(こちら)の中でリンクを張った、オクサナ・バイウルさん。彼女は、柔軟性も表現力の地力もある方ですが、数年前、ボンドガール・メドレーを踊っています(こちら)。 中年になって少しふくよか(苦笑)になっているせいもありますが、この色気は too much で、到底アマチュアの競技会では有り得ないでしょう。

 しかし、ヨナちゃんのように体が硬いと、セクシーさがほどよく相殺され、硬質な色気になるばかりか、強い女の風情も出て格好よくなります。 しかも、オクサナさんのように表現手段が豊富だと、また色気が加算されてしまいますが、ヨナちゃんのように少ない表現手段しかない場合は、セクシーさが過剰になることを更に抑えられる。
 007はまさにそれで、最大の効果を生んだと思います。

 次に、人目を引くしぐさや、けれんみのある動きを入れてスパイスを施し、表現手段の乏しさをフォローしておく。 その代表が、007における「パチン」と「バキューン」です。
(ちなみに、この人目を引くしぐさや、けれんみのある動作は、昨期のSP死の舞踏にも見られます。いろいろ試行錯誤していたのでしょう。)

 SPの007は、以上の基本コンセプトを前提に、以下のようなヨナちゃんの良さを引き立たせる振付が随所に施されている。

(1)背が高く、スタイルが良くて、手足が長い。
(2)陰性ではあるが、氷上映えする独特のオーラがある。
(3)セクシーな振付を踊ることに、照れや躊躇がない。
(4)体は硬いが、動作に切れ目があまりなく、「しなやか」という印象を残せる。

 また、音楽の選択も、007の音楽の中で「まさにこれ!」と思われるものがチョイスされている上、緩急のバランスも良い。メイクも欧米人受けする「アジアン・ビューティー」を意識しているし、衣装も素敵。とにかく、いろんな面でセンスが光っている。

 結論として、007は、演目としての完成度がとても高い。
 間違いなく、観客の心にずっと残るフィギュア史上の名SPの1つだと思います。

 「セクシー」に対する嫌悪感の有無・程度により、最終的な好き・嫌いや品格の評価は分かれるだろうけど、あの演目に目を引かれない人はいないだろうし、あの演目を演じるヨナちゃんから硬質な色気を感じられないなら、その人は不感症だと思います。
 そして、ここが一番大事だけど、あまりに演目自体が素敵だから、ヨナちゃんの表現手段の少なさなんて、これっぽっちも気付かない。
 まさに、チーム・ヨナによる、演目での勝利。

 ここまではいい。
 問題は、LPです。LPについて、SPと完全に同じ手法を取ることはできないと思いませんか。表現の幅の狭さを自ら白状しているようなものだからです。

 そこで、音楽をスローに変えてみる。クラシックのピアノ協奏曲。
 だけど、色気は残しておきたいので、ガーシュウイン。
 このプログラムは発表がかなり遅いんだけど、前宣伝を十分にしておく。「LPは、ヨナ自身。ヨナの全てを全部見せる。」

 SPでヨナちゃんのボンドガールに魅了された観客は、スローなピアノの調べを聴いただけで、「SPと違うヨナ」を感じてくれる。
 そして、簡単に感嘆してくれる。「こんなにしっとりした曲も踊れるんだ。」

 異議を唱えるのは、私みたいに、敢えて表現力を見極めるという目的をもって分析する、文句たれな奴だけだ(前回の記事を参照)。

 でもね、たとえば、昨期のLP「シェヘラザード」を観て下さい(こちら)。今回のLPと、印象が殆ど変わらないと感じませんか。特に、音を消すと、「あれ?どっかで見たな、これ。」と思いませんか。 違うヨナちゃんが、そこにいますか?

 シェヘラザードとの違いは、シェヘラザードには、アラビアを意識したひじと手首を曲げる振り付けがあるのに対し(しかし、ヨナちゃんの振り付けのこなしが甘い。曲げるならきちんと曲げろと思う)、ガーシュウインの方は、NYC の洒脱さを意識したと思われる、両手首を同時に上から下に振る、80年代のジャズダンスの世界で非常に流行った振り付けがあることと、セクシーさをシェヘラザードより多く出していることくらい。 つまり、この2つのプログラムは構成・振り付けがすごく似ている。

 そして、再三いっているように、ヨナちゃんは表現力の地力が少ないので、同じような構成・振り付けだった場合、異なる印象を与えることができない。

 そのことが分かっているでしょうに、今期のLPで「人生」を表現しているなんて大上段に構えるのは、おこがましい、ってなもんです。 
 五輪のEXにいたっては、セクシーさを抑えたため、もはや「だしがら」。
 語るべき情感は何もなく、ひじから下~指先の気遣いの抜き具合というか、だらだらさ加減はひどいもんです。

 以上の次第で、最終的な結論、つまり、ヨナちゃんの表現の幅は、「硬質なセクシーさ」という至極狭い幅しかない、そうである以上表現力という意味では、トップ選手の中では低いレベルといわざるを得ない、という結論に至ったわけです。


 と、ここまでは友との約束を果たした論考でした。


 私が、いっちばん好きなのは・・・こういうダンサーにはこういう演目を、と考えることなんです。
 なので、以前、ヨナちゃんには「カラボスを」と言いましたが(こちら)、別途、日を変えて、これをもう少し説明させて頂きたいと思います。
 
 それじゃね、友よ、ちゃお!
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by koharu-annex | 2010-04-05 18:53 | フィギュアスケート女子