もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

カテゴリ:考察(フィギュアスケート含む)( 13 )

先日アップした記事で、私は、フィギュアスケートが「スポーツ」か「芸術」か、という争点の立て方はトンチンカンなのではないか、という意見を書きました。

実は、これって、前提でして。私が本当に書きたかったことは、この続きです。

ちょっと昔のことになりますが、五輪の女子フリーが終わった後ですよ、私の知人がですね、「真央ちゃんのプログラムはチャカチャカ動いててうるさかった。キム・ヨナのは滑らかでスムーズだった。真央ちゃんを応援してたけど、キム・ヨナが滑らかだったから、芸術性ではヨナの方が高いと思った。」とおっしゃったわけですよ。

同種の意見は世間でよく見受けられます。極端なものになると、「フィギュアスケートは『芸術』カテゴリに移すべき」という考えを前提に、概要、「ジャンプは跳ぶ前に体が前に沈むので、流れを止めてしまって滑らかさを損なう。これは芸術的観点からはマイナスである」とした上で、あげく「3Aを演技の中に完璧に溶け込ませたら芸術として認める」という趣旨の主張をする荒唐無稽な説も。

上記のうち「芸術」カテゴリ論がトンチンカンだというのは、以前の記事に書きましたので今回は触れません。今回取り上げたいのは、上記のような考え方は、お話している人達はあまりにも気楽に話しているので自覚がないのかもしれませんが、結論として、「大きな動作あるいは多数の動作をしないで『滑らか』な見かけを作ること」が、「『芸術』の唯一の条件である」、と言っていることと同じであるけれども、それはひどく奇妙だ、という話です。

ちなみに、上記のような考え方は、ヨナ選手と真央選手に関連させて初めて生じたものではなく、伊藤みどりさんの頃から、しばしば世間に噴出しています。私は、この考え方は、はっきり言えば「誤解」だと考えています。今回は、この昔からある「誤解」を取り上げます。したがって、ヨナ選手の演目の評価からは外れますので、その点よろしくご了承ください。

では、始めさせて頂きます。今回も長いので、お茶でもご用意なさって下さいまし(笑)。何なら何日かに分けて読むとか。

まず、あらかじめ確認しておきますが、「滑らかさ」の中には、「実はとっても高度な技術を必要とするけど、その技術の存在を知らないとそれを全く認識できずに、単に『滑らか』という印象しか残らない」という種類の「滑らかさ」というのがあります。(最近、私が観た例では、パリ・オペラ座の東京公演「ジゼル」で、マリ・アニエス・ジロによる脅威のパドブレの足さばきによるレールの上を引かれているようなミルタ、というのがありましたが、これはまた別の記事にて。)

しかし、私が問題視している考え方は、裏にびっくりおったまげな技術(たとえば上のジロのパドブレに匹敵するようなスケーティングの技術)がある「滑らかさ」を褒め称えているわけではないことは、その言いっぷりから明らかです。彼らが言っている「滑らかさ」というのは、滑らかな印象の中でもとりわけ、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」です。

この種の「滑らかさ」というのは、高度な振付でないスローテンポの舞踊、ぶっちゃけて言えば、バラード系の音楽に、ダンサーが音楽のテンポに完璧に合わせられる程度の平易な振付を施した舞踊であれば、ほぼ間違いなく得られる典型的な印象、といえます。逆にいえば、そのような舞踊で、滑らかな印象を残せない表現者はあまりに技術が稚拙すぎて、お話にならないので議論の俎上に乗りません。バレエにおいて、この「滑らかさ」を用いる代表的な例は、多人数で踊る群舞が、枯れ木の賑わい的に使用される場合です(そうでない群舞もたくさんあります。念のため)。しかし、この「滑らかさ」だけをもって、ソリスト以上のダンサーの完成度の高い舞踊を成立させることは、ほぼ有り得ません。観客を魅了する要素が圧倒的に足りないからです。

もちろん、「滑らか」な印象を残す演目が、芸術の一種である「体を使った表現」の1つの類型であることは確かです。しかし、あくまでそれは一類型です。裏に高度な技術がある「滑らかさ」だって、この類型の中の一種類に過ぎない。技術と要素がぎっしり詰まっている舞踊も、それがあからさまに分かるものも含めて、立派な「体を使った表現」の一類型です。

したがって、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」が「好き」というのはおかしくない。だけど、「だから芸術だ」というのは、それ以外の類型の「体を使った表現」を、その芸術分野から排除することを意味し、明らかに奇妙です。どれくらい奇妙かというと、「静物画だから芸術だ。」といっているのと同じくらいに奇妙です。「静物画だから芸術だ。」という考えは、風景画、人物画、抽象画などの他の類型の絵画を、「絵画芸術」という分野から排除する意味を持っています。しかし、こんなこと言う人、いないでしょう?

問題は、絵画の分野でそんなアホなことを言う人なんていないのに、どうしてフィギュアスケートの場合には、突然、「滑らかだから芸術」、なんて言う人が出てくるのか、という点です。

私は、その答えは、ずばり、経験値だと思っています。

「滑らかだから芸術」と言っている人は、その意味を深くは考えてないんだろうけど、絵画については「深く」考えないでもアホなこと言わないんですよ。なんで、アホなこと言わないかというと、経験則上、絵画にはいろんな種類があると誰でも知っているからです。

ところが、フィギュアスケートに関してはもちろん、舞踊に関しても、多くの人は絵画に比べて圧倒的に鑑賞経験が少ない。当然、知識も浅薄で、「民族舞踊」「社交ダンス」「バレエ」というようなカテゴライズくらいしか知らない。例えば、「静」のイメージ・「動」のイメージという分類や、「演劇的な演目」・「音楽的な演目」という分類の仕方で、ジャンルを越えて仕分けできることを、多くの人は知らない。

バレエのことを、よく優雅・滑らか・ゆったりなどと言っている人がいますが、バレエにはそうじゃない演目だってたくさんある。むしろ、主役のソロの踊りの多くは「優雅」という言葉の印象よりも、ずっとずっと、かな~りアクロバティックだと思いますよ。民族舞踊、社交ダンスなど他のジャンルの舞踊でも、何度かちゃんと鑑賞すれば、一般的なイメージと異なる演目が多数存在することはすぐに分かります。お能だって、静かで眠くなるような演目ばかりじゃなく、主役が空中で回転するようなドッタンバッタンな演目だってあるんですよ。だけど、舞踊を鑑賞しない人は、そんなこと全く知らない。

一般的に、鑑賞経験がないと、「美」を感じる感知センサーは、勢い、その程度が「それなり」のレベルにとどまってしまいます。自分がそのジャンルについて持っているイメージに合うものだけを、無意識に取り出してしまうからです。しかも、人間というのは、自分が綺麗だと思ったことのみ「美」であると考えてしまう傾向がどうしてもある。そうすると、他の類型にも「美」が存在するという知識がなければ、自分のイメージや好みに合う類型のもののみを「美=芸術」である、とする思考に陥りがちです(なお、美=芸術かどうかはとりあえずここではおいておきます)。

さらにたちの悪いことには。

舞踊において、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」という種類の「滑らかさ」というものは、実は、ひっじょーに、一般受け・素人受けしやすい。

しかも、フィギュアスケートの場合、鑑賞歴が浅い人ほど「氷の上」ということが頭から離れませんから、なおさら「スケートにおける芸術」=「滑らかさ」という思考が、当然のように形成されると思う。
(じゃあ、スピードスケートは芸術的じゃないの?というツッコミは考えないんだろうと思われます。ちなみに、私は、個人的にスピードスケートのコーナリングには、時に非常に「美」を感じるんです。なので、同じスケート競技の中でも、スピードスケートと異なるフィギュアに特異な芸術性として、重きを置くべきなのは、舞踊と同種の「美」だと思っています)

と、ここまで書いておいてなんですが、「滑らか」さを単純に綺麗に思っている人はまだいいんですよ。私が、あらら…と思っているのは、「何もしていないことから、何かを感じるのがえらい。」という、意味不明の評論家ぶった考え方から、「滑らか芸術論」を唱えることです。これは・・・正直、およしになったほうが良いと思います。とても格好悪いです。
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by koharu-annex | 2010-04-22 17:55 | 考察(フィギュアスケート含む)
【アップ後、末尾の青字の部分を加筆しました。】

一般的に、バレエ、ダンス、舞踊などの「体を使った表現」の場合、表現者の行う具体的な表現は、その全てが、体を使う確かな技術に裏打ちされたものであることが理想です。したがって、「体を使った表現」においては、

動いて、なんぼ

動けて、なんぼ というのが基本です。

私達は、①その「動き」に惹きつけられるとともに、②その「動き」に表現者が込めた情感を感じ取り、心を揺さぶられるわけです。

そうであるからこそ「体を使った表現」では、観客に①と②の「両方」を与えることを目的とします。表現者はその目的に沿って、①を与えるために技術を磨き、②を与えるために表現力を磨くのです。

表現者によって、与えられる①②のバランスの類型は多々あります(前回の記事で述べた「技術が高い人は、その有する表現力が過小評価される」というのは、①が高すぎて②が相対的に低くなるという、1つの典型例)。しかし、①を与えることを放棄すると、②を与える前提が消えてしまいますので、①を放棄することは決してありません。

念のため確認しておきますが、①の「動き」には技巧的な動きも含まれます。例えばバレエの男性ダンサーのソロのヴァリエーションの基本は、

とんで はねて 回ってなんぼ

ですから、跳躍と回転に関する技術も当然に含まれます。女子のソロの場合には、

ステップ踏んで 回ってなんぼ

ですから、技巧的なステップの技術と回転の技術が、当然に含まれます。

多くのバレエダンサーが「テクニックは表現のための手段である」という趣旨の言葉を残しています。この文章は2種類の意味に解釈することができます。1つは、「テクニックが豊富であれば、表現手段も豊かになる。」というのもので、もう1つは「テクニックは、あくまで表現の手段に過ぎない。」というものです。しかし、いずれの意味にしても、テクニックの保有は議論の大前提です。

だからこそ、表現者は、たゆまぬ技術の向上と維持に努めるわけです。年齢や怪我のために、ある技術が使用不能になったら、何らかの技術で代替するんです。代替できる技術が少なくなり、表現手段が限られてきたら・・・自分の理想の踊りができなくなったとして、多くのダンサーが引退していきます。舞台に直立で立っているだけで何かを表現していると感じられるダンサーですら。

逆に言えば、ダンサーが体を使う技術の向上(なお、一定年齢の経過後は「技術の維持」になり、更に年数経過後は「技術の劣化速度の遅延」になる)を自らやめてしまった場合、表現の手段たる技術は喪失される一方ですから、評価はあからさまに下落します。というか、観客が評価する以前に、役がつかなくて舞台から消えてますわね。

「体を使った表現」という芸術は、このような構造になっているので、見せる側からすれば、表現者が獲得した技術を観客に見せない、などということは有り得ないんですよ。その技術がスーパーであればあるほど、そうです。振付家が、特定のダンサーの特定の技術を敢えてクローズアップして見せるために、わざわざ特別に演目を振付けることすらあるんです。

さて。
フィギュアスケートが「スポーツ」なのか「芸術」なのか、という議論があります。しかし、仮に「スポーツ」ではなく「芸術」にカテゴライズされたとしても、フィギュアスケートが「体を使った表現」の一類型である以上、上記と同じことです。つまり、体を使う技術は必須ですから、その技術の向上をはかることは当然です。また、見せる側からすれば、スケーターの持っている技術を見せない、などという選択は、本来的には有り得ない。

もし、この本来の姿が捻じ曲げられ、表現者が自分が有する技術を見せないという選択をせざるを得ない事態、あるいは技術の向上そのものを否定するような事態が常態化しているならば、それは何かがおかしくなっている、ということです(その「何か」とは、採点基準が筆頭に上がるんでしょうけど、これには深入りしません、というか、できません。。。)。

繰り返しますが、これはフィギュアスケートが「芸術」カテゴリーだったとしても、同じことです。「体を使った表現」である以上は、体を用いた「技術」の向上・維持とその観客への披露は、絶対的であり、否定される理由は一切ありません。

したがって、私は、フィギュアスケートの技術の評価に関する議論において、フィギュアが「スポーツ」か「芸術」かという争点の立て方をするのは、トンチンカンなものだと考えています。スポーツではなく芸術と定められたとしても、技術は変わらず、表現における最も基本的な基礎として、あるいは表現手段そのものとして、正当に評価されるべきだからです。

中途半端なので、次回に続きます。
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by koharu-annex | 2010-04-09 00:16 | 考察(フィギュアスケート含む)
こちらは、もしかしてトホホにおける3月3日のこちらの記事をあらためてこちらでアップしたものです。



 前回の記事で書いたように、友からメールをもらい、要するに、「フィギュアスケーターで、表現力がある人って誰? キム・ヨナと真央ちゃんに表現力の差はあるのか?」と質問されたわたくし。

 キム・ヨナちゃんと真央ちゃんの表現力を語るためには、長い前置きが必要になります。

 そもそも、「表現力」ってのものを考察しないといけません。
 ということで、まず、表現者を、能力別に5つのタイプに分類してみました。音楽に合せて所定の振付を踊ることを念頭に置いています。

1. たとえ振付どおりに体を動かすことはできても、その体の動きに情感を込めることが、生来的にできないタイプ 
* ダンサーだけでなく、人間全体を対象にすると、案外多いと思う。
* このタイプが体を使ったプロの「表現者」になることは不可能だし、表現力が採点基準に入っているスポーツで上にいくことも難しいと思う。

2. 情感を込めているような「ふり」ならできるタイプ(実際には情感は込められていない)。
* 踊りをお稽古事レベルでしている人にはとても多い。
* 表現が「わざとらしい」と感じたら、このタイプだと思う。

3. 自分の感情に基づく情感ならば表現できるが、他者の感情に共鳴することは不得手なタイプ。
* 他者に共鳴して表現するに至るためには、コツ習得が必要。
* コツを習得しても、コツの範囲内でしか表現することができない。そのため、「自分ではない何物か」の役を踊らないといけない場合には、爆発的な表現や、圧倒的な迫力のある表現はできない。

4. 自分の素の感情だけでなく、他者の感情に共鳴してその感情をも表現できるタイプ。
* このタイプは、「自分ではない何者か」の役についても、あたかも自分の感情を表すかのように踊ることができる。
* ただし、役に同化するところまではいかない(後付けで、役同化のコツを習得する人もいる)。

5. 自分や他者の感情表現に留まらず、役に同化して演技をすることができる役者タイプ。
* 引退したバレエダンサーのアレッサンドラ・フェリが、このタイプの典型。


 このように表現者が、もともと有する能力によって5つのタイプに分かれるとしても、私達は特定の作品における具体的な表現を通して、その表現者の表現力を感得するわけです。
 そうすると、その人の表現力の有無を判断する際には、上記のような能力だけでなく、以下のような個別の要素も考慮に入らざるを得ない、というのが私の経験則です。

【表現者に関する要素】

* かもし出すオーラ
 ← あった方が、表現力を感じさせる。

* オーラの種類
  ← お姫様、王子様、わがまま坊主、色男、
   変わったところでは、何とも言えないカリスマ性、など。
   バレエでは、姫・王子オーラを持っていると、圧倒的に表現力を感じさせる方向に働く。
   
* 音楽性
 ← 当然ですが、最低限の音感・リズム感は必須。
   これが全く無い場合、振付が音楽と合わないことから、表現力ありと評価することは難しい。

* 一定レベルの踊りの技術
 ← これがないと見るに耐えなくなるので、必須。

* バレエや民族舞踊の経験
 ←  これらの踊りには、一種の様式美や、感情の型がある。
   その様式美や型を表現手段として用いると、表現力を感じさせる方向に働くことが多い。

* 手足の長さ
 ← 長い方が具体的な表現の幅が広がるので、表現力を感じさせる方向に働く。

* 柔軟性
 ← 柔軟な方が具体的な表現の幅が広がるし、柔軟性を鑑賞することは一種の快感なので、表現力を感じさせる方向に働く。


【作品に関する要素】

* 音楽・内容と、表現者のオーラとの相性
 ← 真っ向から衝突すると、見ていて違和感があり、表現力を感じさせない方向に働く。

* 音楽の難易度
 ← 表現者の音楽性の範囲内に収まっていないと、表現する前の段階で、表現者がついていけない。

* 振付が要求する技術の程度
 ← 振付が、表現者が持っている「踊りの技術」以上の場合、表現する前の段階で、表現者がついていけない。
   失敗による表現の中断も痛い(失敗する直前からリカバリーの時まで、表現者は「素」に戻っているので)。

* 内容と表現者の年齢
 ← あまりに設定年齢が表現者の年齢と離れていると、鑑賞者に違和感を与えて、表現力が相殺される。

* 内容と表現者の能力の程度
 ← 内容が、表現者が表現できる幅の範囲内に収まっていると、表現力を感じやすい。たとえば、表現者が、上記6番(役者タイプ)であっても、同化できる役の幅は、個々人で異なる。娼婦役が、その幅に入ってないことだってある。幅の範囲外であった場合、鑑賞者に違和感が残る場合がある。


【特別事情】 

* 現役引退
* 怪我・大病・困難からの復活
* 大切な人の死
 ← 見る側が特別事情を知っているため、些細な表現にも反応してしまう、という側面もあるが、表現者の方も極めて感傷的になっていて、もともと持ってる表現力が倍加することが多い。


 続きはまた明日以降。
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by koharu-annex | 2010-04-05 14:33 | 考察(フィギュアスケート含む)