もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

カテゴリ:考察(フィギュアスケート含む)( 13 )

ワールド女子の感想の中で書いていたんだけど、ちょっと長くなっちゃったので、先にこのトピックだけアップします。

今回のワールド女子SPについての韓国の報道に接し、「韓国って、ヨナちゃんという大スターがいながら、フィギュアはマイナースポーツのままなんだな~」と実感したことがありました。

女子SPが終わった後、韓国のとある報道機関は「日本は3枠の枠取りも危うくなった」と。韓国の場合はヨナちゃん1人しか出場しないので、この記者は「銀以上で3枠」というルール「しか」知らなかったんだと思う。鈴木・浅田・村上の3人が出場している日本の場合は、この「銀以上で3枠」は適用されず、「上位2選手の順位合計が13以内」というルールが適用される。つまり、3、6、7位発進だった日本は、かなりの好スタートを切ったと言える。(そもそも2位以上も狙える順位なんだがな~)

当該記者(&当該報道機関)が無知でアホ、と言えばそうなんだけどさ。
例えば、サッカーの場合を考えてみると・・・先日、サッカーワールドカップ予選の試合があったじゃないですか(日本の場合はヨルダン戦)。予選でどうなればワールドカップに行けるか、というところで間違える報道機関は、日本はもちろん韓国でも皆無(日本語でサイトがあるところだけしかチェックしてないけど)。また、日本がヨルダンに敗戦を喫したとはいえ、日本のワールドカップへの道程に暗雲が垂れこめた系の報道も皆無。

仮に、日本がヨルダンに敗北したことを伝えるに当たって「これで日本は予選突破が苦しくなった」なんて書いたら、記事が掲載される前に、報道機関内で多くの人が突っ込むでしょう。「いやいや、日本、今でも予選通過の最有力候補なんだけど?」とか「苦しくなったのは日本じゃなくてオーストラリアやイランだけど?」とか(←グループBではヨルダンが2位に上がったのでオージーが3位になった。このままオージーが3位になってプレーオフに出ることになると、グループA3位のイランがプレーオフで苦戦する可能性が大きい)。つまり、そんなアホ記事が掲載されることなど、例え韓国であっても、絶対にあり得ない。なぜなら、スポーツ報道の能力がダイレクトに問われる部分だから。

フィギュアにおける枠取りのルールを全部把握していないというのは、サッカーの予選の全体像を把握していないのと構造的には同じ。なのに、この体たらく。それがまさに、マイナースポーツ故の悲しさって感じがしないでもないな~と。

ただ、韓国は昔から、この手の、何とか日本を見下したいというか、窮地に陥った日本を見て気分良くなりたいというような感情が先走って、事実と異なる報道や、事実は合致してもその評価が極論過ぎる報道をすることがあるから、このアホ記事もその一部と言えばそうなのかもしれませんね。(こっちから見てても、「人間の心の奥底にしまっておくべき汚らしい感情を、ここまであからさまに顕わにして、人として恥ずかしくないんだろうか?」と思わず心配しちゃうことすらあるからな~)
その場合、このアホ記事が掲載された理由は、フィギュアの「マイナー」性にあるというよりも、色んなところから突っ込みが来ることを想定する状況には「ない」というところにあるのかもしれないな。多くの突っ込みに突き上げられる恐れがないなら、前提事実を今一度確認する手間よりも、早く自由奔放に書いて気分爽快になるところに重点を置いちゃう精神構造がある、というか。

という次第で、他国のこととはいえ、お粗末な記事でありました。
無知でアホな記事って「アホだな~」で終わらず、不要な小さな誤解や混乱を招いて迷惑。「アホ」と結論づけるまでに多少の手間もかかるし(私は枠取りルールを再確認させられたよ)。
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by Koharu-annex | 2013-03-29 15:12 | 考察(フィギュアスケート含む)
皆さま、ご訪問やコメントありがとうございます。
ご返信できないままになっている上、年頭のご挨拶がこんな時期になってしまい、お恥ずかしい限りです。

いい加減なワタクシですが、どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。

さて、しつこい風邪でこの年末年始は外出を控えていたワタクシ、テレビ漬けの日々でございました。
そんな中、人生で初めて、競技エアロビクス(=エアロビックと呼ぶらしい)の日本選手権を拝見したのでありますよ(NHK BS)。

社団法人日本エアロビック連盟のサイトによれば、競技の概要は以下のとおり。
競技では、種目別に7.0m四方と10m四方の競技エリアを使用し、エアロビック動作やエレメントと呼ばれる難度別の動作を組み合わせた演技(ルーティン)を「芸術」「技術」「難度」の観点から審判員が採点し、その合計点で優劣を競います。
で、採点は以下のとおり。
●芸術審判は、ルーティン(演技)の構成と内容、プレゼンテーション(表現力)について評価します。【10点満点】
●技術審判は、全ての動作について完成度や遂行度を評価します。【10点満点】
●難度審判は、エレメント(難度動作)の遂行度を評価します。各エレメントにつき(0.1~1.0)の範囲で加点されます。
●禁止動作: 宙返りなどの体操競技の技は禁止動作とされています。
印象としては、複数のエレメント(難度がついている動作)の間を、エアロビック動作(これも採点対象)で埋めている感じ。エレメントについては、こちらのPDFを見ると楽しいです。

エアロビック動作は、皆様ご想像の通り、リズミカルに跳ねて移動するような動作が主体。しかも、エレメント以外では常にエアロビック動作をしている状態なので、音楽のテンポは全ての選手の演技において、終始一貫して早めのテンポになります。実質的にはスローパートは一切なしと考えてよい。
また、リズムについても、含まれる全てのエアロビック動作を均一に遂行していることを示すためなのでしょうけれども、単純で画一的なものでした。

音楽は各選手が個別に用意するようで、中にはゴッドファーザーとかあるんだけど、全て早めの画一的なテンポとリズムにアレンジされています。「おお、この曲がこんなポップで機械的な音楽に!?」となかなか面白いです(笑)。

このエアロビの視聴は、ものすごく考えさせられましたね~。
何って、表現とその評価についてです。

身体表現という観点から見た場合、競技エアロビックには、動作と音楽について極めて大きな制限があります。
制限が大きいだけに、一見しただけだと、その演技はどれも変わり映えしない画一的なものに見えがちだし、評価としては個々のエレメントやエアロビック動作が綺麗にちゃんと出来たかどうか以外、判断できないんじゃないかとすら思えます。

しかし!
採点では「芸術点」が最初にくるんですよ。この芸術点の内容は、上記のとおり、演技の構成と内容、そして表現(プレゼンテーション)です。テレビ実況でも、「この音楽によく合っている。」「音楽の表現という意味ではもう少し改善の余地がある。」、「この音楽の世界観をよく表している(あるいは世界観というところまでは至らなかった)。」などと解説されていました。

最初、かなり衝撃を受けましたよ。
ええっ?こんなポップな動きしながら、ゴッドファーザーの世界観って!?みたいな。

ただ、ずっと見続けていると、ミクロな世界が存在することが分かってくるわけです。あ~、言い方がうまくないな。ミクロな世界というよりも、私が向こうに何もないと思っていた壁の向こう側に、実は存在していたアナザーワールドって感じですかね。もちろん、見続けていくうちに、壁はどんどん薄く半透明になっていきます(まだ厳然とそこに存在はしてるけどね)。

かくも厳しい制限の中で、音楽と世界観の表現へ向けた飽くなき工夫と格闘をしている人達がいることを知って、ちょっと感服しました。

厳しい制限の中で「表現」を表出するためには、どうしてもエレメントとエアロビック動作の高い技術が必要です。
技術がそこそこでも、表現の地力やルックスで多少のフォローが可能、という他の身体表現(たとえば舞台系や店舗での小規模なショー)にありがちな、口の悪い厳しい言い方をすれば「ある種のごまかし」のようなものが、競技エアロビックでは、まず不可能に思えました。表現の前提として、エレメントとエアロビック動作の完璧なフォルムと動作を行えることが必要で、そうするとそれらを支える体幹の強さと俊敏さは必須。これらがないと表現を表出する土俵にまず立てない感じです。技術の未熟さは、即、次の動作への遅れや(残酷にもアップテンポの音楽のリズムとテンポに遅れるのでモロばれ)、移動距離の短さとして、目に見える形で表れてしまいますので。

実際、表現を表出できるところまで達している気がする・・・と私が感じた選手というのは、技術の仕上がり自体にも非常に安定感がありました(もちろん私程度の人間が見ていて安定感を感じるという話だけども)。
採点を見たところ(こちら参照)、芸術点と技術点で逆転現象も起きてはいるのだけども(これは各エレメントに難易度に応じた点数があるのでしょうから、当然出てくることだと思います)、大きな乖離というのはないような気がします。

こういう、なんというんでしょう、制限があまりに多すぎて技術と表現があまりずれないというか、重要なところではほぼ表裏一体になっている競技というのは、採点に疑義が生じてもその疑義の程度はたかが知れているのではないでしょうかね。逆に言うと、制限がなくなればなくなるほど、表現の自由度が上がり、必然的に採点にも大きな疑義が生まれやすくなると。

ただ、自分が自由度が極端に低いものを「表現」として見たいかといえば、それはないなあ。
今回、競技エアロビックをずっと見続けたけど、それはいわゆる「表現」を見たいからではなく、技術を行っている選手の身体やその動きそのものが、単純に美しいからですよ。鍛錬されたアスリートの身体が動いているのって、本当に美しいから(実際、ほんとに綺麗だったんですよ!!!!)。・・・でも、言ってしまえば、それだけ。テレビつけてやってたら見ると思うけど、積極的に録画しようとは思わん。
> 競技エアロビックを愛する方々、すみません、本当にすみません。

フィギュアスケートがこんなに人気があるのも、真央ちゃんや高橋さんという稀代のスターの存在は大きいのでしょうけど、その前提として、フィギュアスケートが比較的自由度の高い競技で様々な表現ができるからじゃないかなあと思う次第。採点方法も含め採点について議論百出するのは、その副産物といえるかもしれません。

あー、新年一発目が、取りとめない話になってしまってスミマセン・・・。
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by Koharu-annex | 2013-01-17 18:26 | 考察(フィギュアスケート含む)
Koharu@マウイ引き続き旅行中、です。

先日コメントでご質問を頂いたのですが、充分な回答をお返しするほどの知識が私にはありませんので、皆様のお助けを賜りたく!

ご質問はタンゴについてです。
今季のフィギュアスケートでは、演目にタンゴを選択している選手が多いので、

   ① タンゴの種類
   ② それぞれの見所

を教えて欲しい、とのことです。

この①②のご質問に対するご回答、あるいはそれに付随する情報をコメント欄に頂けると非常に有難いです。
これまでコメントを下さった方々の中には、アルゼンチンタンゴや社交ダンスをたしなむ方々がいらっしゃったので、期待してまーす!

一応、タンゴに関するワタクシの浅薄な知識と経験からの感想を、以下に記しておきます。

タンゴの発祥は、19世紀。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの、安酒を出す飲み屋や娼館が立ち並ぶ港近くのラボカ地区(今ではタンゴ発祥の地として観光名所になっています。私は日程の都合上行かなかったけど…)。

発祥の経緯については諸説あるけど、以下の説がよく言われるところだと思う。
裕福になる夢を追ってアルゼンチンに移住あるいは出稼ぎに来た、スペインやイタリア出身のラテン系(しかもガテン系)の男達。
彼らは、働けど働けどいまだ貧しいまま。
そんな彼らは、じっと手を見る・・・ではなく、毎夜のようにヤケ酒を飲んで、ヤケ歌・ヤケ踊り・ケンカを繰り広げつつ、安い娼婦を抱いたりなんぞしておりましたとさ。
そのうち、男どものヤケ踊りの相手を娼婦がするようになり・・・男女ペアの踊りとなる。

その発祥が物語るように、アルゼンチンのタンゴは、強烈に荒々しく色っぽい。

私の2007年の旅行の記憶によれば、アルゼンチンで催されるショータンゴ(観光客だけでなく地元の人達も観に来ている模様)は、まさにそのような印象でしたね。
女性はスリットが深く入ったドレスを着て(基本は黒と赤ね~)、片足を男性の腰の位置まで上げてタメたり、脚を男性の脚に絡ませたりしますし、男性のホールドも深く、男女の密着度が高い。
あと、特徴的なのは、皆さんよくご存知の首を横にすばやく振る動きですわね。
もちろん、普通の方々はそんな踊り方はしてなくて、タンゴバーで踊る皆さんのタンゴは平和なもんでしたが(笑)。

アルゼンチンのタンゴが、ヨーロッパにいわば逆輸入されて発展したのがコンチネンタル(大陸)タンゴで、これが社交ダンスのタンゴになっていきます。
そのため、社交ダンスのタンゴは、ラテンではなくモダン(スタンダード)に分類されているはずです。

タンゴの伴奏として使用される音楽は、基本的に2拍子です。
4拍子のもあるけど、3拍子目に強烈なアクセントがつくので(これの呼称を失念)、普通の4拍子とは印象が全く異なりますね。
(なお、今回の旅にたまたま楽典に関する本を持ってきたのですが、その中のコラムでとある短大の教授がタンゴについて「スペインからアルゼンチンに渡った」と書いてました。これは、主語がダンスなのか音楽そのものなのか判然としない点で誤解を招くし、少なくともダンスについては虚偽の可能性が極めて高いです。音楽については真偽不明ですが、私は虚偽だと考えています。)

演奏では、アコーディオンの簡易版のような形状の「バンドネオン」(以前、水嶋ヒロ君がCMで弾いてましたわよね。ヒロ君・・・本当に引退なのかしら?)が使われることが多いですが、これはもともとはヨーロッパ生まれの楽器で、タンゴ専用に開発された楽器ではなく、使用された始めたのもタンゴ発祥からはだいぶ時代が下るようです。

ところで、最も有名なタンゴ音楽の1つに、ピアソラ(ブエノス生まれだけど幼少の頃にNYCに移住。ちなみにバンドネオンの名演奏家だったそうな)が、作曲した「リベル・タンゴ」があげられると思います。
が、この超有名曲、発表当初は、母国アルゼンチンで「踊れないタンゴ」として非難ゴウゴウだったそうですよ。

ちなみに、私めがアメリカで駐妻していた頃、暇を持て余してハープを習っていたのですが、ハープの先生がよく余興でハープ用に作曲されたタンゴ曲を弾いてくれました(今は知らないけどその頃はUSAでもアルゼンチンタンゴが大流行中で、先生自身もアルゼンチンタンゴ専門のダンス教室に通っていたため、弾きたくなったらしい…)。
ハープで演奏するタンゴ曲も、踊れない(または踊るのが困難な)タンゴ曲という印象でした。

つまり、「タンゴ」と総称される音楽には、踊りである「アルゼンチン・タンゴ」または「コンチネンタル・タンゴ」のための楽曲と、純粋にタンゴ(またはタンゴ風)の音楽として楽しむための楽曲が存在する、と考えられる、というわけですわね。
フィギュアスケートで使用する場合、厳密に踊りのタンゴのステップを踏むわけではないですから、後者の楽曲を使用することも充分可能でしょうね。

余談ですが、この9月にタラソワさんがロシアのTV番組でタンゴを踊っていたそうですが、ロシアは、バレエの世界で図抜けているだけでなく、社交ダンスも強いですよ。
今年のブラックプールの成績によると、今、世界を席巻しているのはUSAとイタリアみたいですけども、種目別やアマチュアではロシアがトップグループに入っていますし、昨年、一昨年はプロ部門総合でもロシアがトップグループに入っていたように記憶しています。

アイスダンスが盛んであることも考え合わせると、ロシアでは社交ダンスがかなりの地位を獲得しているのは間違いないと思います。そうである以上、タラソワさんがタンゴを踊るということも、ことさら不思議なことではないかな、と思います。
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by koharu-annex | 2010-09-22 21:39 | 考察(フィギュアスケート含む)
皆様、こんばんは。

コメントへのお返事が滞っていてすみません。
実は、ここのところ・・・暇さえあれば、ずっと漫画を読んでいたのです。

コメント欄で教えて頂いた、こちら。

キス&ネバークライ(1) (講談社コミックスキス)


小川 彌生 / 講談社

小川彌生著「キス&ネバークライ」(講談社コミックスキス)の1~7巻を、近所のブックオフで見つけて大人買い。
(ちなみに・・・同じく教えて頂いたモロゾフさんのキスアンド~は置いてなかったよ!)

読んで初めて、ワタクシ、この漫画がフィギュアスケートのうち「アイスダンス」を扱っていることを知ったのでありますよ(表紙がいつも女性1人なもんですから、てっきりシングルかと・・・)。

そのことを、いつもご本とお菓子を送ってくれる友人に話したところ、こちらの漫画を全巻送ってきてくれました。

PARTNER 7 (フラワーコミックス)

名香 智子 / 小学館

名香智子著「パートナー PARTNER」(小学館)です。1巻の初版が昭和56年、最終巻(17巻)の初版が昭和62年の古い漫画です。
ワタクシ、この漫画のことは全然存じ上げなかったのですが、競技ダンスを扱った漫画です。

で、この7巻の159頁以下のセリフにですね、とても示唆に富むものがありました。
主人公の男女ペアが、競技ダンスの世界で最も権威のある英国選手権(ブラック・プール)において、プロ・ラテン全5種目の決勝進出を決めた場面で、彼らのダンススクールの経営者夫婦が発するものです。

夫 「もっとも これが グレート・チャンピオンだった英国審査員たちでなかったら またちがう結果になっていたかもしれないがね」

妻 「ほかの審査員だったら・・・?」

夫 「責任ある立場の人間が 公の場で新しいものを認めるというのは 自分の目に絶対の自信がなければ できないことだ」

妻 「・・・・・・そうかもしれないわね」

夫 「そうさ 審査員の偉大さこそが この英国選手権(ブラック・プール)の権威なんだ」

これ、すごいセリフだなあ、と思ったのです。特に最後の夫のセリフ。

実際のブラック・プールの審査がこのようなものであるのか否か、私は存じ上げません。

しかし、ダンスに限らず、およそ「審査」が必要な競技においては、審査員の目が確かな競技会が最も信用性が高くなるのは当然で、そのような審査を継続して維持できれば、その競技会の権威が上がるのは間違いないのではないでしょうか。

また、競技会の審査に限らず、新聞・テレビ・雑誌などのマスコミにおける、舞踊評論やフィギュアスケートの解説やアナウンサーのしゃべりなどにも、同じことが言えるのではないでしょうか。

ついでに言っちゃうと、上記のセリフでは「新しいもの」を認めることの難しさに言及しているわけですが、「当たり前のもの」を「当たり前」に評価するということを、誰に対しても公平かつ継続して行える人って・・・案外少ない。

フィギュアスケートの審査員って大会ごとに固定されているわけではないようなので、審査員がその大会の権威の根拠となることは無理みたいですが、少なくともTV報道の解説者やアナウンサーについては、ある程度固定されているわけですから、信用性のある、そして(現在は到底そのようなレベルじゃなさそうだけど)将来「権威ある」と呼ばれるような報道を目指して欲しいデスね。
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by koharu-annex | 2010-08-26 03:04 | 考察(フィギュアスケート含む)
身体を使った表現者には、「雰囲気で勝負する人」っていうのがいるんですわね。

ここでいう「雰囲気で勝負する人」というのは、技術(演技力や情感を込める技術も含まれる)はぴかイチではないけど、独特のオーラのようなものを持っていて、舞台上で特有の雰囲気を出すことができる人、という意味です。

なので、技術もぴかイチでオーラもある、という人は含まれません。
逆に、技術そこそこ、オーラもなし、という人も入りません。(プロでも群舞を含めると数としてはこのタイプが最も多い。)
また、以前は身体能力を生かした技術で売ってたけど、年を重ねて身体能力が減退するに従い、役者のような演技や情感を込める技術が高くなり今はそれで売っている、という技術種類の転換に成功した人も含まれません。

「雰囲気で勝負する人」には、多くの場合、ファンがついています。

その理由は、3つあります。
1つめは、「雰囲気で勝負する人」というのは、そもそも美形またはスタイルの良い人が多くて、そこに惹かれる人が存在するからです。
2つめは、ルックスはさておき、その有するオーラや雰囲気が好き、という人が存在するからです。(とある女性表現者の、顔はともかくエロい雰囲気が好き、という男性はここに入る。笑)
3つめは、「雰囲気で勝負する人」の一定割合は、昔はぴかイチの身体能力を持っていたけど今は失くしてしまい、演技派・情感派への転換もうまくいかなかった人なんですが、昔のファンの一部がずっと応援し続けてくれるからです。

これらのファンの存在が、初めてその「雰囲気で勝負する人」を観る人に、正当な評価をさせないことがあります。人の心理として、「こんなに大勢のファンがついているってことは、きっとスゴイ表現者に違いない」、あるいは、「こんなにファンがついている人の素晴らしさが分からない自分が、勉強不足に違いない」、などと思ってしまうからです。

特にその表現者が昔技術を持っていた人である場合、ファンは表現者のほんのちょっとした動作からも、昔日の高い技術の残滓を嗅ぎ取り、それを過大に評価する傾向があるので、なおさら新参者の鑑賞者を混乱させることがあります。
もちろん、そのほんのちょっとした動作が、身体能力を失ったその表現者が見出した究極の表現であることもあるわけで、それはそれで評価の対象にはなり得るものです。しかし、そのようなケースは、極めてまれです。しかも、そのような究極の表現というものは、鑑賞者にも極めて高いレベルの鑑賞眼を要求するものであり、おいそれと見極めることはできませんから、少なくとも普通レベルの鑑賞者は無視しても構わない事項といえます。

ところで、メディアというものは、自社が後援する公演の宣伝のために、その出演者について、評論目線の形式を使って、一方的な応援目線で評価したコメントや文章を盛んに発信します。

これと同じことを、多くのファンの方達は、無意識にやってのける。
もちろん、どの世界においても、ファンの発言というものは、その多くが応援目線で発せらます。これは当然のことで、そのことに全く問題はありません。

しかし、やっかいなことは、ファンの方自身が、ご自身の発言について、客観的には応援目線からのものであるにもかかわらず、主観的には評論目線からのものであると思っている場合があるということです。

さらにやっかいなことは、マスコミについては「自分とこが後援してるからね~」と懐疑的に見ることができても、経済的な利益が直接には感じられない、一般人や一部の評論家・解説者の発言については、それがファンの応援目線からのものではないか?という疑問を、その評価を参考にする側が持ちにくいことです。

ある表現者に対する評価を検討する際、それが応援目線からのものなのか、純粋な評論目線からのものなのか、常に気をつけて見極めるべきです。
そして、その際には、形式的には客観的な立場で発していると思われる一般人・評論家・解説者の中にも、公言していないだけでファンがいる、という事実を忘れないことです(ファンであることについて、潜在意識にあるだけで、ご自身が認識していない場合もあると思います)。

このポイントは、対象となる表現者が「雰囲気で勝負する人」であろうがなかろうが、常に持っているべきものでしょうが、私が見たところ、「雰囲気で勝負する人」の評価について最も問題が多い気がするので、敢えて指摘しました。

ご自分の鑑賞眼(審美眼)を信じること。それが一番です。
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by koharu-annex | 2010-08-20 16:22 | 考察(フィギュアスケート含む)
サッカーの話じゃありません(笑)。

それにしてもW杯、決勝T進出、めでたいデスね。
皆さまそれぞれ、お気に入りの選手がいらっしゃると思いますが、私は松井さんです。W杯前の親善試合の頃は全く使ってもらえなくて、ワタクシ、悲しく歯がゆい想いをしていたのでした。決勝Tでも、ご活躍を祈念しております。

さて、信ちゃんの記事の続きを書く前に、一般論をできるだけ片付けておきましょう、ということで。
今回は、腕による表現について。

腕の表現って身体表現には必要不可欠なので、多くのジャンルの舞踊に「腕の型」があります。
「腕の型」を適正に行うためには、腕だけでなく、腕と連動する胸・首・肩・背中が適正なポジション&動きをしなくちゃいけない。そのため、ちゃんとした腕の型をマスターするためには、その連動したものも含めて覚えていく必要があるため、どうしても一定期間の修練がいるわけですわね。

ところが、そういう舞踊の専門的な訓練をそれほどやらなくても、あるいは全くやってなくても、先天的に「躍り心」がある人(踊りに対するセンスが全方位的に高い、くらいの意味で使っています)って、「腕の型」に近い、とても良い腕の動きができることが多い。

何が一番違うのかしら・・・とずっと考えていたのですが、現在のところ、ワタクシの答えは、「ひじ」。

ひじを横に張ることができて、かつ腕を動かすときにも「ひじ」を横に張った型のまま、動かすことができると、腕の動きはとても「舞踊的」に見える。
普通の人は、物を持って腕を曲げる時くらいしか「ひじ」を使わないため、横に張った「型」って殆ど日常で見かけない。だから、「ひじ」を横に張って動かすという動作は、地味だけど、とても「舞踊的」に感じるんだと思う。

そもそも、「ひじ」を意識した腕の動きって、なぜだか、とても綺麗な形になりやすいんです。
また、「ひじ」で腕を動かすと、肩が無駄に上がらない。肩が無駄に上下しなければ、上半身の動きがすっきりと美しくなる。加えて、手首の表情も、実はひじの形と位置がきちんとしていると、とても美しく見える。

要するに、「ひじ」は腕のカナメなのですわ。

ピンとこなかったら、ちょいと実験してみて下さいまし。
まず、鏡の前で、前でも横でもいいですから、腕を肩の高さまで「普通に」上げて下さい。
このとき、殆どの人は、主に肩、補助的に手首、にチカラを入れて腕を上げているはずです。
次に、肩のチカラを完全に抜いて、「ひじ」にチカラを入れて「ひじ」から動かすように、腕を上げてみて下さい。
最初のときより、腕に表情が出ませんか?

フィギュアスケート選手の中では、高橋選手と鈴木選手がこの「ひじ」使いが上手だと思う。
ただ、将来的には、村上佳菜子ちゃんが、この2人よりももっと上手になるだろうと思います。

佳菜子ちゃんは、肩甲骨の稼働域も広くてよく動くんですが、彼女の「ひじ」は本っ当~~~に素晴らしいです。あそこまで「ひじ」を動かせる方は、滅多にいないと思う。
適正位置よりもいつも若干上がり気味なんですが(笑)、下がっているよりも100倍良いです。
下がっている人は将来も上げられない可能性があるけど、上がりすぎている分には下げる方向への修正はいくらでもできますから。
それに、「ひじ」が上がっていると、若さやはつらつさが出ます。実際、バレエでも、若い娘の役のときは「ひじ」が上がり気味の振付で、奥様以上の年齢になると「ひじ」を上げない落ち着いた雰囲気の振付になります。

逆に、「ひじ」の動きの悪さが、惜しさを倍増させている選手は、ヨナちゃんです。
彼女の欠点としてよく挙げられる「手首から先がダラ~ンとしている」は、私は「ひじ」に根本的な原因の1つがあると思っています。そういうとき、彼女の「ひじ」は適正位置にありませんから。もう少し「ひじ」の位置と動きを意識すると、連動して手首の形も良くなると思う次第。

ヨナちゃんが「ひじ」を訓練した方が良い理由はもう1つあって、それは、以前指摘したように肩と肩甲骨の稼働域が狭いという、致命的欠点があるからです。

「ひじ」をちゃんと使えない人は、腕を主に肩で動かします。
ヨナちゃんも肩で動かしているんですが、肩甲骨の稼働域が狭いために、腕の動きのバリエーションという意味ではものすごく手前に限界があるんです。
「ひじ」の適正な動きをきちんとモノにすれば、肩甲骨の稼働域が今のままでも、多少は腕に表情がつくはずです。

ただ、ヨナちゃんがえらいのは、「肩があまり上がってない」ということです。

腕を主に肩で動かすと肩に力が入ることから、普通、肩が上がり気味になってしまうことが多い。
肩にチカラが入って上がり気味になるのは、ずばり、舞踊的におブサイクです。
一般的に、腕を肩だけで動かしている選手は、腕に「ひじ」による表情がないことから「腕をぶんぶん振り回しているだけ。」と見えてしまう上に、肩が上がってさらにおブサイク、という悪循環を生んでいます。

ヨナちゃんは、肩を意識して下げているので、この悪循環は避けられていると思う。
ぶんぶん~のところは、彼女の振付のスローさからあまり目立たない。これはラッキーですね(笑)。
逆に言うと、アップテンポでこの悪循環は出やすい。安藤さんと信ちゃんは、時々だけどその悪循環が見られます。
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by koharu-annex | 2010-06-26 20:56 | 考察(フィギュアスケート含む)
前編で、私は、中野さんには、音楽に寄り添い音楽と同化する方向性の優れた音楽性(Aの能力でかつレベルが高い)があると申し上げました。また、中編で、この音楽性のレベルは、拍子取りが難しい曲で、なおかつ拍子が分かっていないとできない振付じゃないと判断できない、ということを申し上げました。

そしたら、例の友から苦情がきました・・・くどい、結論から書け、だそうです。はうー。
20年来の友人に、自分のブログに書いた文章でダメだしされる私。
私も暇人だけど、彼女も暇だよな~(お互い子無しだからか?)
帰納法と演繹法のことまで書かれてあったよ。はうー。
でも、また異常に美味しいお菓子を送ってくれたので、我慢します。ううう。

では、結論から。
ワタクシの感覚では、中野さんの「火の鳥」は、結果的に音楽が主役の演目になっていたところ、中野さんの演技は音楽に同化してその音楽を紡ぐ素晴らしいものだった。
これは、「音楽を表現する」という言葉の、直球ど真ん中のコアな定義に合致するものである。

で、ワタクシめが考えた理由。
中野さんの「火の鳥」は、敢えてねらった部分と、ねらってないけど結果的にうまい具合にそうなったという偶然が重なって、「音楽を視覚化」するタイプの抽象主義バレエに非常に近い演目になっていて、かつ、そこに中野さんの音楽性がドンピシャにはまったから。

上記で全てを言っているんですが、とりあえず、おしゃべりな私は補足したくなるので、以下お暇な方はお付き合いクダサイ。

舞踊の評論において、時折、以下のようなことが言われることがあります。
振付を含め当該パフォーマンスが優れているか否かは、音楽の聴こえ方で分かる。
優れたパフォーマンスの場合は、音楽があまり聴こえない。
そうでないパフォーマンスの場合は、いつもよりずっと音楽が聴こえる。


私は、この指摘は、半分当たっているけど、半分はずれている、と考えています。

当たっていると思うのは、「そうでないパフォーマンス」の場合に、音楽が悪目立ちするという感覚。
音楽を使った身体表現では、何らかの理由によって(振付が音楽とあまりに乖離している、実演者の技術不足・振付の未消化・表現力不足などにより色んな意味で音楽とずれる、など)、舞台上のパフォーマンスと音楽の間にどんどん距離ができていってしまうことがあるんです。

この場合、大げさにいえば、身体表現と音楽演奏という2つの表現が、同一場所で平行して勝手になされている感じになる。そうすると、「身体表現を観る」という目的からすると、ものすごく音楽が邪魔というか、時として、雑音あるいは妨害音のように「鳴り響く」ことがあるんです。(しかも、身体表現もいけてないから、まさにトホホとしか言いようがない状況)

だから、「いつもよりずっと音楽が聴こえる」の「聴こえる」の前に、「うるさく」という言葉を入れたら、しっくりくるかな。
私の経験では、バレエの場合、「白鳥の湖」のラストで起こることがある(白鳥のラストはことのほか音楽が強いことも関係していると思います)。

はずれていると思うのは、「優れたパフォーマンス」の場合。
確かに、演劇的な演目など、効果音やバックミュージック扱いで音楽が使用されている場合は、演目自体における音楽の地位が相対的に低いですから、優れたパフォーマンスのときに「音楽があまり聴こえない」ということがよく起こる。観てる側が演技に集中しちゃってますからね。

だけど、「音楽を視覚化」しているタイプの舞踊類型の場合、優れたパフォーマンスのときに「音楽があまり聴こえない」などということは起こらない。
この場合、音楽は、「より鮮やかに」聴こえるんです。

その理由をつらつら考えて、私が行き着いた結論は、普通の人が音楽をただ聴いているだけでは捉えきれない拍子やメロディの強弱やリズムを、目に見える舞踊という形で表現してくれることにより、音楽を「耳」だけでなく「目」からも感じて、それを脳と心で一体化できるから、ということ。
これの例として私が一押しなのは、バレエダンサー吉田都さんの「ラプソディ」です(音楽は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲)。

ここで、中野さんの「火の鳥」に話を戻します。
前回申し上げたように「火の鳥」は物語バレエですが、主人公は火の鳥ではなくイワンという男性で、この物語の中で火の鳥とは全く別のお姫様と結婚してハッピーエンドです。

では、火の鳥とはどういう存在かというと、そこは議論のあるところです。
私は、手塚治虫さんが漫画「火の鳥」で行っている解釈、つまり時間も空間も超越した存在、というのが一番しっくりきます(なお、手塚さんの漫画「火の鳥」は、バレエ「火の鳥」をみて触発されて創作されたと言われています。念のため)。

つまり、イワンやお姫様などと違って、「火の鳥」そのものには人間的な個性がなく、あるのは、一種哲学的な善悪の判断、のようなものです。
これは、中野さんから感じられる、「自分の中で良いと思っていること、なすべきこと、などがはっきりしている」、という印象とちょっと重なるところがある。
それは、私のようにうるさく、表現者の個性と演目のマリアージュを要請する者を満足させる。

他方で、中野さんは、自分自身の「善と捉えるものがはっきりしている」という印象を、強烈に前に出すわけではない(出す能力が低いかもしれないという可能性は、ここでは検討する必要なし)。少なくとも「火の鳥」の演技においては、自分自身を表出することについては、とても謙抑的な印象を受ける。
これが、また良かった。「音楽が主役」感がすごく出ていた。

ここまでは、おそらく偶然だと思う。
これからは、敢えてチーム中野(?)がねらったこと。

トラヴィンスキーの音楽「火の鳥」は、拍子取りが簡単な曲ではありません。
しかし、中野さんの「火の鳥」の振付は、音楽との密着性が非常に高いものでした。Aの音楽性を持っていないと、つまりきちんと拍子をとってそこに振付をこまかく割り振っていく能力がないと、消化するのが難しい振付だと思います。

「火の鳥」が何度もフィギュアスケートで使用されていることは存じ上げておりますが、このような音楽と密着度が高い振付は、私の限りですが記憶にありません。
例えば、今回の五輪のライサチェクさんも「火の鳥」でしたが、その振付は、フレーズ単位で把握できるタイプで、「火の鳥」の音楽そのものとの密着性は高くない。少し振付を変えれば、ほかの曲でも代替がきく印象です。(ついでに言っちゃうと、ライサチェクさんの衣装は・・・なんで黒い羽つけてんですかね?火の鳥が焦げた・・・アワワ。あの衣装にするなら、白鳥の湖のロットバルトで行った方が良かったんじゃあ・・・)

中野さんに対して、こういう音楽的な振付をしたということは、振付家のズエワさん(とおっしゃるのですね。今回学びました。)は、中野さんの音楽性を高く評価していて、そこを前面に出そうとしたのではないかと勝手に想像しています。ちなみに、EX「ハーレム」の宮本さんの振付からもその印象を受けました。

そして、あの衣装。
賛否両論あるようですが、彼女の拍子取りが極めてよく分かる衣装でした。
疾走感のある曲調の部分では、身体が流線状に変化する印象を受け、音楽への同化感を助長する。

そして何より、実際の中野さんのパフォーマンスは、文句なく音楽的でした。
スピンやジャンプですら、彼女の内なる拍子に基づいてなされていたように、極めて音楽的な流れがありました。
私が「火の鳥って、こんな音楽だったんだ!」と思えたのは、私が自分では絶対に捉えきれない「火の鳥」の拍子と独特のリズムを、中野さんが身体で見せてくれたからです。

私は、「火の鳥」の音楽については、そのメロディを、あたかも単なる途切れ途切れの糸(しかも色もまばら)のようにしか把握できないんです(私にはAの能力はありません)。しかし、中野さんがその身体表現で、きちんとした拍子と独特のリズムを見せてくれた。これは、私の把握できるメロディを横糸とすると、縦糸の存在とその色を見せてくれた、ということになります。
そのおかげで、私は、「火の鳥」という音楽を、一枚の美しい布として把握することができました。あまつさえ、そこに描かれた紋様さえ、私は感じることができました。

ちなみに、中野さんの「火の鳥」の演技の中で、私が一番音楽性が分かると私が思うのは、TEB(?)の演技です(こちら)。
私は、何度も見直したし、そのたびに画面の前でブラボーと言いながら拍手をおくりましたよ。

中野さん、本当に・・・ありがとうございました。
何度もバレエ「火の鳥」(たぶん小1時間くらい)を観ても、ちっとも経験できなかったことを、あなたの4分間の演技で、私は一気に経験することができました。
相変わらずストラヴィンスキーは苦手ですが、中野さんの演技を観ているときだけでも、「火の鳥」の音楽を美しいと思えることは、私の宝です。
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by koharu-annex | 2010-05-17 17:18 | 考察(フィギュアスケート含む)
後編書いてたら、超~長くなりそうなので、この中編の末尾に後編の一部を移ししました。青字の部分です。

*ここで使われている言葉(拍子、リズム、フレーズ、メロディ)の関係性は、<前編>をご参照ください。

後編じゃなくて、中編にしました。すみません。

さて。
「音楽に寄り添い、音楽と同化する方向の音楽性」(Aの能力)を持っている人って、以下のような特徴を持っています。

(1) 楽譜を見ずに音楽を聴いただけで、たいていの「拍子」を感覚的に取ることができる。
(2) その楽曲のメロディやリズムがどうあろうと、「拍子」を感じながら、実演(演奏や舞踊)をすることができる。
(3) 実演中に自分の内部でカウントしている「拍子」と、そのテンポが、極めて正確(外の音が消えても問題なし)。


統計取ったわけではなく私の見てきた感覚に過ぎませんが、一般的に、人間の拍子の感覚って以下のようなものだと思います(メロディとリズムが変な曲だとそのせいでまた違ってくるので、全ての楽曲に共通とはいえませんが)。

●2拍子、3拍子、4拍子 
→ 多くの人が拍子を取ることができる。

●6拍子、9拍子、12拍子など
→ 正確に拍子を取れる人がぐっと少なくなる。
2拍子、3拍子、4拍子と単純化して取っても多くの場合問題ないでしょうが、正確に取っている人とは「きちっと」感が違う感じがしますわね。

●5拍子、7拍子、13拍子など
→ 多くの人が拍子を取れない。
実演の際には、例えば5拍子なら「1・2、1・2・3」または「1・2・3、1・2」というふうに、7拍子なら「1・2・3、1・2・3・4」というふうに、2拍子、3拍子、4拍子に分解してカウントすることが多いと思います。

●曲の途中で拍子が変更
→ 殆どの人が対応できない。難しい曲になると、楽譜を見ても拍子が取れない。


Aの能力を持つ人が、上記の全ての拍子について、(1)~(3)の特徴を発揮できるかというと、そうでもなくて、そこにレベルの違いがあるのは確かです。
また、Aの能力って磨くことが可能なので、最初は変わった拍子や変化する拍子に対応できなくても訓練によってある程度対応できることもあると思います。

他方で、拍子を正確に取れる人って案外少ないのに、どうして踊れる人ってそれよりも多いの?、という疑問が浮上するわけですわね。

それはね~、私の見た感じでは、基本的にはその楽曲の個々のフレーズ(+リズム)単位で振付を把握しており、拍子はどうしても必要な箇所だけ最低限度で把握する、というやり方をしているからなんですわね。

具体的に説明しましょう。 
例えば、童謡の「ぞうさん」に簡単なお遊戯を振付けたとします。
たいていの人は、「ぞ~ぉさん♪」、「お~はなが♪」、「ながいのね♪」、などのフレーズ(+リズム)単位で振付を把握します。

だけどね。音楽性が高い人は違う。

「ぞうさん」って・・・3拍子なんですよ。

「ぞうさん」を踊るのに、3拍子を感じながら踊る人ってものすごく少ない。賭けてもいいけど、絶対少ない。でも、音楽性の高い人って、ワルツには程遠い、この「ぞうさん」ですら3拍子を感じながら踊る、ということですわね。
ニュアンス伝わったかなあ~。


で、次に出てくる疑問は、「拍子を感じながら踊っている人」と、「フレーズ単位で踊っている人」では、何が違うのか?という点。

この答えは単純。

前者は「音楽と同時に動いてる」、後者は「音楽が聴こえてから動いてる」ってことです。
もちろん後者でも、拍子がずれるほど動きが遅くなることはないですから、この違いは、非常~に、幽き(かそけき)違いです。
特に、「ぞうさん」レベルの曲で違いは見えません(笑)。

が、一般論として、たくさん、たくさん、たくさん、音楽付きの「身体表現」を見ていると、だんだん幽き違いが見えてくるんです。
そして、その表現者が、比較的ちゃんと「音楽と同時に動いている」人なのか否かが、何となく分かってくる。
ごめんなさい。この部分についてはもうこれ以上具体的にいえなくて、そうなるのとしか言いようがない。

ただ、Aの能力の「レベル」の判断は、曲と振付が判断向きのものじゃないと難しいです。
仮にAの能力が低かったとしても、拍子ではなくフレーズ(+リズム)で振付をこなせる演目の方が多いと思うんですね、数からすると。
だから、Aの能力の「レベル」の判断って、拍子取りが難しい曲で、なおかつ拍子が分かっていないとできない振付である場合じゃないと明白にはできない、といえるのですわ。

はあ、やっと行き着いた。
そこで、中野さんの「火の鳥」なんですわ!

じゃあ、後編でまた!

<後編の一部を移動させました>

「火の鳥」は、ストラヴィンスキー作曲のバレエ音楽です。

バレエをあまりご存知でない方も多いでしょうから、ちょっと説明させて下さいね。
「火の鳥」は、ロシアの複数の民話を基にした物語バレエです。バレエ・リュスという、バレエ史的にいうと革命的なバレエ団が1910年にパリで初演しました(バレエ・リュスとはロシアバレエ団という意味ですが、主な活動地域はヨーロッパです)。

バレエ・リュスの主催者ディアギレフは、史上3本の指に入るであろう優秀な興行主で、また、「天才を見出す天才」というべき人です。ストラヴィンスキーも彼に見出された芸術家の1人で、「火の鳥」の以来を受けた当時、彼は地元ロシアですら無名でした。

ストラヴィンスキーの「火の鳥」の作曲過程は、振付家フォーキンの台本作成&振付と並行して行われています(これについては興味深い話があるのですが、ここでは無視)。
結果として、バレエ「火の鳥」は初演から大成功。ストラヴィンスキーは、世界デビューと同時に名声を手にします。ストラヴィンスキー28歳の年。

その後たて続けに、彼は、バレエ・リュスのために、「ペトルーシュカ」(1911年)、「春の祭典」(1913年)を作曲します。「火の鳥」とあわせてこの3曲は、ストラヴィンスキーの三大バレエ音楽と呼ばれていますが、おそらく彼の作品群の中でも、かなり有名な楽曲ではないでしょうか。特に「春の祭典」は、20世紀音楽の傑作中の傑作などと呼ばれていますので、バレエ音楽と知らない方も多いのでは?(バレエ音楽って、基本、下に見られてる気がするので・・・)

ストラヴィンスキーのバレエ音楽には以下の特色があるのですが、これらは作曲の順番が後になるほど顕著になってる感じです。(つまり「春の祭典」に最もどぎつく出ている)

① 攻撃的あるいは緊張感あふれる音色バリバリの不協和音(複調を含む)
② メロディよりもむしろリズムが主役となっている主題
③ 変拍子が多く、おまけに短い時間でコロコロと変化する

こういう曲は、演奏家もやりづらいでしょうが(実際、難曲と言われているそうです)、ダンサーも踊りづらい。
「春の祭典」にいたっては、舞台上のダンサーが「1、2、3」とカウントを取っている声が聞こえた、という話もあるくらい(たぶんニジンスキー版だったと思う)。

白状すると、私は、ストラヴィンスキーの音楽がとっても苦手です。
でも、彼が曲を提供している演目は、バレエ史やバレエの全体像を把握する上で、重要かつ必須の演目が多いのです。なので、仕方なく、無理に無理を重ねて、「火の鳥」も、「ペトリューシュカ」も、「春の祭典」も、何度も何度も、すごーくガマンして観てる。
それでも、未だに苦手です(過去のこちらの記事ご参照)。 だから、バレエ「火の鳥」みてても、「早く終わって・・・」と後半は願っちゃってることが結構ある。

ところが。
そんなワタクシめが、中野さんの「火の鳥」を最初に見たとき、目だけでなく「耳」を奪われたわけですよ!

火の鳥って、こんな音楽だったんだ!


と、ものすごく驚いて、テレビの前で凍りついたように中野さんの演技を見続けたことを、今でも鮮明に覚えてる。

で、私は、分析するわけだな、どうしてそう感じたのか、その理由を。


<以下、本当に後編に続く、と>

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by koharu-annex | 2010-05-14 15:40 | 考察(フィギュアスケート含む)
信ちゃんの第2弾((2)について)を途中まで書いてはいるんですが。
コメント欄で何度か触れさせて頂いたのですが、内容についてあまりに手を広げすぎたおかげで収拾がつかなくなっています。なので、一般論については別トピックとして先に書いていこうかな、と。

ということで、今回は、音楽に関するとあるトピックを。

また3月の世界選手権に戻ってもよいでしょうか(苦笑)。
ヨナちゃんのLPで、彼女が失敗して、スケート的にはもちろんそうでしょうけど、舞踊的にも見るべきところなく滑っていた終盤、解説者が「でも、キムヨナ選手は、音楽を表現するのが、本当に上手ですね~。」という趣旨のことをおっしゃったんです。

この「音楽を表現するのが上手」という趣旨のセリフ、ずっと昔からフィギュアスケートの解説では時折使われていますが、私は以前からちょっとひっかかっていました。
しかし、今回の上記解説者の発言で、確信したんです。フィギュアスケートの解説者って、このセリフを、「何も言うことがないときに使う」、というトホホな真実を。

正確には、スケーターが、①スローテンポな曲にのせて、②簡易な振付をこなしてはいるが、③特に情感は表せていない、という時で、かつ、解説者が「何か言わなくちゃ。」と思った場合に使われる。

アップテンポの曲の場合、振付どおり踊れていれば、「よく体が動いてます。」「のってますね。」などと言う。スローテンポな曲でも、振付が難しい場合は、「簡単そうに難しいことをやってます。」とか「この●●は難しいんですよ~。」などと言う。情感が表されている場合は、「表現力がありますね。」「なりきってますね。」「個性が出ています。」などと言う。

だけど、①~③の全てが揃ってる場合は、何も言うことが無い。で、普通は黙ってるんだけど、このスケーターを褒めなくちゃいけないと思っちゃった場合、あるいは黙っているのがいたたまれない場合に出てくるのが、「音楽を上手に表現してます。」である、と。
ついでにもっとはっきり言えば、スケーターが自分で情感を表せていないくせに、④「ちゃんとそっちで何か感じてね。」とアピールしているように見受けられる場合に、使用頻度が明らかに高くなってる。

これは、解説者が「音楽を表現する」ことを超~甘く見てるってことだけど、私はこれには大反対です。
音楽を表現する」ことって、音楽にのせて身体表現を行う場合の究極の目標の一つです。ちなみに、抽象バレエのうち音楽を視覚化した類型においては、ほぼ唯一の目標といっていい。そして、この「音楽を表現する」っていう目標は、非常~に難しい目標なんです。

それなのに、安易に解説者が「音楽をよく表現しています。」などと言うと、経験値の浅い視聴者の人達が、「こういうのが音楽を表現するってことなんだ。」と思い込み、以前述べた「滑らか芸術論」(こちら参照)と同様の問題を生じさせてしまいます。

音楽は、リズム、メロディ、ハーモニーの3要素から出来ています。このうちハーモニーは、今回の問題の場合、無視していい。なので、とりあえずリズムとメロディを念頭において下さい。
リズムとメロディって、言葉にすると簡単に分けて理解できるように思えるけど、実際は分かち難く結びついていて、私達は密接に関連した両者を「音(楽)」として捉えるわけです。

ちょっとここで、音楽理論からは正確じゃないだろうけど、私が後で使う「拍子」「フレーズ」という言葉の意味を、先に説明しておきますね。

「拍子」
私達が感じる具体的な音楽の「リズム」の前提にある、2拍子とか3拍子とか4拍子などの、拍子の意味で使います。拍子をとることを、「カウントする」と言わせてもらったりもすると思います。

「フレーズ」
大きなメロディを構成する小さなメロディ、くらいの意味で使います。

さて、音楽にのせて身体表現をするためには、当然、最低限の音感が必要です。なので、競技会で演技が出来ているスケーター達は、全員、ある一定以上の音感が備わっていることは確かです。ヨナちゃんだって、真央ちゃんだって、高橋さんだって、信ちゃんだって、皆、一定レベル以上の音感はゼッタイに持ってる。
ただ、残念ながら、その全員が「音楽を表現」できるわけでは、ない。

表現者の中には、体の中に音楽を取り込める人達がいます。「音楽的」とか、「音楽性がある」、などと言われる人達です(もちろん論者によって意味は違ってきますが)。
私は、この人達の能力って、大きく次の2種類に分かれると考えています。

A; 自分の内部で拍子をきっちりとカウントできていて、振付をリズムとフレーズに完璧に細かくきちんと割り付けて、正しく踊ることができる能力
→ とても上品な踊りになります。バレエダンサーにおいて、この能力は大きな美点。

B; リズムとそれに合わせられている振付を、実際に踊る時に、天性のカンで限界までずらすことができ能力。
→ この踊りは、カッコイイ。鑑賞者に「ずれた」と思わせず、「味」(スゥイング等)と思わせることができます。

もちろん、これらの能力を持っていなくても、努力によって同様の効果を得ることはできます。が、やはり、天性の能力の有無では、効果のレベルに差があります。

Bの能力を持っているのは、高橋選手と鈴木選手です。
特に、高橋選手は図抜けています。

Bの保有者が踊る時、本来該当しているリズムよりも先に動作を始めたり、フレーズが終わった後に動作が終わったりします。ところが、それらが「失敗」の印象を残すことはありません。表現者が、あたかも音楽を引っ張ったり、伸ばしたり、自在に操って遊んでいるかのような印象を与えることさえあります。その印象は強烈にカッコイイので、解説者も、Bの能力が発揮された場合には、結構、ちゃんと褒めてます。

また、Bが強烈な印象を残すのに対し、Aはわりと地味ですから、見ようと思って見ないと見えないものです。だから、音楽に対するセンスという意味では、AよりもBが優れているのではないかと思う人が多いかもしれません。私も、昔(バレエが古臭く感じて、それ以外のジャンルのダンスの方がカッコイイな~と思っていた時期)は、BはAの進化系だと思っていたんです。

が、今は、そうではないと思っています。Bを持っていても、きちんとカウント取りをした踊りができない人って、ものすごく多いんです。むしろ、BよりもAの保有者の方が、実際は少ないんじゃないか、と思うくらいです。なので、おそらく、AとBは違う能力なんだろうなあ、と思っています。

実は、「音楽を表現する」ためには、Aの能力を持っていなければならないんです。
このAの能力って、いわば、音楽に寄り添い、音楽と同化する方向の「音楽性」なんですが、それがまさに「音楽を表現する」ということです(少なくともバレエにおいては同趣旨のことが言われています)。
これに対し、Bの音楽性は、言ってみれば、「音楽を表現する」のではなく、「音楽を自己の表現のために道具の一つとして使用する」ようなものです。

Aの能力を持っていたのが、中野友加里さんでした。
私は、引退した方の話はしないようにしているのですが、今回はちょっと特別に書かせて下さいませ。
彼女は、プログラムによくバレエ音楽を使用していましたけれど、それは彼女の音楽性が非常にバレエ向きだったからだと思います。(実は、ルックスと姿勢に関しては、バレエに不向きなマイナス点も結構ある。)

だけど、私がテレビやyoutubeを観た限りにおいてですが、彼女の音楽性を真正面から褒め称えた解説って、残念ながら無かったと思います。

彼女のこの優れた音楽性というのは、本当に珍しいくらいの高度なものです。
彼女の演技こそ、まさに「音楽を表現する」ものでした。

だから、最初に述べたような、間違った時に間違った人に対して「音楽を表現するのがうまい。」などと解説するのではなく、ちゃんと中野さんが滑っているときに「音楽を表現するのがうまい。」、「よく音楽を表現している。」と解説すべきだったと、私は思う。

また、Bの能力を褒めているのであれば(具体的には鈴木選手と高橋選手は音楽の取り方について褒められています)、Aの能力についてもちゃんと褒めるべきです。

今更ながら、ネットの隅っこからダメだしさせて頂きます。

ちょっと長くなっちゃったので、後編に続きます(またかよ!と自分で突っ込みいれてます・・・)。
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by koharu-annex | 2010-05-08 22:31 | 考察(フィギュアスケート含む)
【5月1日午後8時40分、赤字の部分を加筆しました。】

わたくし、とても大事な、しかも基本的なことを、すっかり忘れてしまっていました。
結構、表現力に関する記事って、集中して書く必要があるので、近視眼的になってたな~と反省する次第。

なので、信ちゃんの続きではなく、今回、この記事をアップさせて頂きますね。

信ちゃんに関する「全ての感情を『泣き』で表現する男」で、わたくし、とても良いコメントを頂いたんです。
鍵コメ様なので、趣旨の抜粋をさせて頂きますね。

★鍵コメ様、事前にご連絡する手段がなく、ここで突然ご紹介させて頂くこと、お許し下さい。
コメントのお返事欄では、到底書ききれるものではなく、また、コメント欄をお読みにならない方も多いので、記事という形にさせて頂きました。
もし、お許し頂ければ、ちゃんとコメントを全文引用させて頂きたいと思いますので(そのほうがちゃんとご趣旨が伝わると思いますし)、よろしかったらご連絡下さい。

鍵コメ様のご趣旨は、以下のとおりです。

(1)スポーツとしてのフィギュアで、「自分自身ではない何か(人物像、ストーリー、音楽など)を表現する」ことは、重要要素にはなり得ても最終目的ではない。そこがバレエや演劇とは決定的に違う。

(2)今季の「チャップリン」をテクニカルな観点で見ると、強みを生かし弱みをカバーするとても良いプログラムだった。評価する人々が多くいる理由はそこにある。全面否定されるのはちょっと悲しい。


コメントを下さったyoko様から承諾を頂きましたので、ここでコメント全文を紹介させて頂きます。

チャップリンのプログラムは、(チャップリンという要素を取り敢えず横に置いて)テクニカルな観点から見ると、織田選手の持つ強みを生かし弱みをカバーする、とても良いプログラムでした。演技の出来はシーズン初戦のフランス杯が一番だったのですが、その時はノビノビと滑ってノビノビ跳んで、音楽と振付を通じて、「織田選手らしさ」をうまく表現できていたと思います。

スポーツ競技としてのフィギュアスケートに於いて、「自分自身ではない何か(人物像、ストーリー、音楽など)を表現する」ことは、非常に重要な要素かもしれませんが、最終目的ではありません。そこが、バレエや演劇とは決定的に違う点だと思います。

まぁ、それにしても、あまりにも有名な人物(織田選手の個性とはかけ離れているし、演じようとして演じられるわけもない人物)をモチーフとして取り上げてしまったのは、大きな失敗だったかもしれませんね。チャップリン映画の音楽、チャップリン風の衣装、チャップリン風のマイム…それらは、「氷上にいる選手はチャップリンを演じているのですよ」「チャップリンだと思って見てください」という強いメッセージになってしまいますから。

ではどんなチャップリンを見せてくれるのか?という視点で見たら、それはもう、見ていられないという感じる方がいても当然です。

私自身は、作品の設定には殆ど重きを置かずに見ていたので、さほど気にならなかったのですが…織田選手がノビノビと良い演技をしてくれた(@仏杯)、そしてそれが高く評価された嬉しさから、やや盲目的になっていたのかもしれません。

ただ…
モロゾフのチャップリンを「良い作品」「織田選手に合った作品」と評価する人々が多くいるのは、最初に書いたことが主な理由だと思います。スケート選手としての織田選手が、(チャップリンではないけれども)彼らしさを表現できるプログラムであったという事です。シーズン後半は、その「彼らしさ」も影を潜めてしまい残念でした。

長々と申し訳ありません。好きだったプログラムについて全面否定されてしまうのは少々悲しかったものですから、ちょっと自分でも考えてみようと思って考え、個人的な意見をコメントさせて頂きました。

芸術や身体表現に関して造詣が深くいらして、ご自分の考えを文章にまとめる術にも長けていらっしゃるKoharuさんのブログを知ることが出来て、大変嬉しく感じています。私はバレエも大好きなので、そちらの方の記事も少しずつ読ませて頂きたいと思っています。


この考え方は、フィギュアスケートの見方として、ものすごく正しいと思う。この考え方がまさに王道でしょう。

え?Koharuさん、今までいろいろ書いといて、どゆこと?と思うでしょうから、ちょっと言い訳させて!

あのね、私もフィギュアの記事を書き始めた頃は、必ず念押しで「フィギュアに詳しい方からすると、け!って感じかもしれないけど、バレエ鑑賞者からすると」、とか「フィギュアの技術は全く分からないのですが、舞踊系の表現に特化した観点から言うと」、という趣旨のことを書いているんです。これは、上記の考え方こそ王道である、という獏とした考えが私の前提にあったからです。

じゃ、なんで門外漢の私がフィギュアの表現力について書き始めたかっていうと、昔の記事にかいてあるとおり(こちらとかこちらとかこちらとか・・・)、リアル友から、表現力ってなに?っていうメールが来たことがきっかけです。

それじゃ、なんで彼女がそんなメールを私に書いたかというと・・・沈静化しつつある話を蒸し返して申し訳ありませんが、キム選手は表現力が高い、だから点数が高い、ということが言われてるが、それが本当なのか?と彼女が疑ったことによるものです。

友のリクエストによって、フィギュアにおける表現力をバレエ鑑賞者の視点から書いてきたけど、これはあくまで亜流の視点なんです。
フィギュアが採点競技である以上、それはやっぱりフィギュアの技術としてどうか、あるいは技術をちゃんと見せるプログラムとしてどうか、という点が最も優先されなければならない視点だからです。

私はフィギュアの技術やそれを生かすためのプログラムについては全く分からないため、その最も優先されるべき視点は完全に無視しています。
鍵コメ様のご指摘のとおり、私が否定した「チャップリン」は、王道の視点からは否定される要素が全くない、ということは充分にあり得るわけです。

しかも、私は、フィギュアの採点においては、私のような視点は用いられるべきではないと思っています。
ここ数年のヨナ選手への点数があまりに高いことからクローズアップされている「表現力」ですが、あまりにも不明確、要するに舞踊経験・鑑賞経験の有無およびジャッジの好みによって相当に差異が出てくる視点です。そうであるがゆえに、恣意的操作も行われやすいですから。

ということで、私の表現力に特化した視点は、あくまですみっこの亜流の視点です。
そのことを、ここであらためてお断りしたいと思います。

もちろん、この亜流の視点からのマイナス評価が、王道の視点からの評価と相反する場合、今回の鍵コメ様のように王道視点からのコメントを入れて頂ければ有難い、と思います。
私も、フィギュアスケートについては、友とともにソチまでウォッチを続けたいと思っておりまして、そのためには王道視点が必要だからです。

また長くなってしまいましたが、よろしくお願い申し上げます。
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by koharu-annex | 2010-05-01 12:25 | 考察(フィギュアスケート含む)