もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

カテゴリ:フィギュアスケート女子( 24 )

真央さんの来季のFPは「愛の夢」を継続、というニュースとともに、新SPの断片的な情報が。

クラシックであること、「役になりきりたい」とのご発言されたことについては一致しているので、オペラやバレエの音楽である可能性が大きいのでしょうね。
(たとえば、物語のない「亡き王女のためのパヴァーヌ」などではないってことだと思う)

ところが。
報道機関によって、「女王様」だったり「お姫様」だったりするので、苦笑しちゃいました。
だって・・・オペラやバレエの世界において、「女王様」と「お姫様」って、めちゃくちゃ違うんだもの!!
そこんとこ流さないで、ちゃんと聞いて(←もち質問の意味です)、正確に書いて頂きたかった。。。

お姫様だと、絞りきれないですねえ。。。

華やか系だと、バレエ「眠れる森の美女」のオーロラ姫が代表格というところでしょうか。
プティパの最後の傑作バレエ「ライモンダ」のライモンダ姫も華やかです。ちなみにライモンダは、後にハンガリー(だったかな)の女王になる予定というバージョンもあるので、「姫」と「女王」が混乱している状況から思い浮かべてしまいました。

オペラ「トゥーランドット」のトゥーランドット姫とか、「トリスタンとイゾルデ」の王女イゾルデとかは、真央ちゃんのキャラじゃないよなあ。。。
白鳥の湖のオデットも一応「オデット『姫』」ですし、「椿姫」も題名とはいえ「姫」がついてるのですよね。ただ、これらはいわゆる「お姫様」とは違うので、候補には入らないのかな、と。

女王様の場合、ほとんど「いるだけ」の脇役までいれちゃうと多くなっちゃうけど、それなりにキャラの立った出番の多いものになるとかなり絞られますが。

「女王」ときいて最初に浮かんだのは、「夜の女王(@魔笛)」ですが、真央ちゃんのキャラには合わないですね。(私は、あの音楽のテンポとキャラに照らして、安藤さん向きだと思っています。ヨナちゃんはキャラは合うけど、テンポが合わないので不向きかなと。)

さてさて、真相はいかに!?
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by koharu-annex | 2011-06-22 21:15 | フィギュアスケート女子

ジゼルについて(2)

前回は、バレエ作品「ジゼル」の成り立ちに遡って、主人公ジゼルがどんな少女であるのかという点を検討してみました。

今回は、現在最も多く上演されている版のバレエ「ジゼル」における、主人公ジゼルの見所を押さえた上で、フィギュアスケートにおける「ジゼル」について、私の感想をば。

第1幕は、ジゼルの住む村が舞台です。
多くは、ドイツのどこかの片田舎で、時間帯は昼間、季節は晩夏~初秋で、村では葡萄の収穫祭があったり、貴族の一行が狩の途中で休憩したりします。

ジゼルの衣装は、当然ですが村娘の衣装で、多くは水色~青をポイントカラーとして使用します。
(Kバレエは違っていて茶色の胴着と黄色いスカートです。実はこれは原案の配色に近い。原案はデザインは違いますが、このような配色の衣装に青色のベールがついていたそうです。←シリル・ボーモント著・佐藤和哉訳「ジゼルという名のバレエ」新書館)

第1幕での少女ジゼルの見せ場(&彼女の資質が良く分かる象徴的場面)は、以下のとおり。
(1)恋の真っ只中にある少女のきらめき
⇒ 特に、恋人アルブレヒト(村では「ロイス」という偽名を名乗っている)と花占いでいちゃつくところは、ベタベタで引くかもしれないけど、後の狂乱の場面で過去の幸せの象徴として出てくるので、その仕草まで押さえておきたいところ。

(2)お母さんのいうことはきかない
⇒ ジゼルのママは、ジゼルの心臓が弱いことを心配して、あまり踊らないようにと忠告します。忠告ついでに、「もし無理して踊って死んだりしたら、大変よ。結婚前に死んだ女の子は、ウィリっていう怖~い幽霊になっちゃうのよ~!」なんて2幕への布石となる説明的なマイムをします。
ジゼル、母一人子一人の家庭でありながら、そんなママの忠告に対し、「大丈夫よ~」とばかりに踊りまくります。途中、うっ!と胸を押さえてアルブレヒトに心配されるシーンなんかもあったりしますが、それでもほどなくして踊りの輪に加わります。・・・自覚が足りないというか、自己コントロール力はかなり低め。

あと、本当はジゼルのママは、森番のヒラリオンを気に入っててジゼルのお相手に良いと思ってて、アルブレヒトには違和感を感じてる(これが通常の感覚)。だけど、そんなママの意向について、ジゼルはお構いなしです。まあ、この点については、ジゼルに限らず古今東西多くの娘も同じですかね(笑)。

(3)無邪気な振る舞い
⇒ ジゼルは、狩の途中で村に寄った貴族の娘バチルダ(実はアルブレヒトの婚約者)の装束の素晴らしさに、とっても綺麗~、とばかりに触ってみようとします。ところが、手を伸ばしたところで、バチルダに振り向かれて思わず手を引っ込める。・・・無邪気な田舎者ともいえるけど、すごく子供っぽいともいえる。

(4)狂乱から死へ
⇒ 恋人アルブレヒトが実は貴族で、目の前にいる綺麗な貴族の女性バチルダの婚約者だと知って、彼女は発狂します。髪を振り乱し(これは倒れたジゼルに駆け寄ったジゼルのママが、こっそりジゼルのまとめ髪をほどいて作り出す)、昔の花占いの場面をヨロヨロと再現したり、アルブレヒトの剣を引きずりまわしたりした挙句に、死亡。
 ここは、ジゼルの「おばかさん」の本体というか「変人」っぷりが大暴走するところなので、ダンサーの演技力が極めて重要になってきます。いろんなダンサーの狂女の演じっぷりは、なかなか見ごたえがありますし、1幕の最大の見せ場です。


次の第2幕の場面は、森の中にある墓場で、時間帯は夜、月光の青白い光に照らされています。
下手の隅にジゼルと書いた十字架の墓標があります。
 
ジゼルの衣装は、真っ白で、何枚もの薄い生地(私はオーガンジーくらいしか生地の名称を知りませんが、いろんな種類があるみたいです)を重ねた半透明の柔らかい長いスカートが特徴です。飛び上がると、身体の動きのあとからスカートがふわりと動く、というようなイメージですね。
他のウィリ達や、ウィリの冷酷な女王ミルタも同様の衣装を着ています(ミルタは少しゴージャスバージョンになってます)

第2幕での、ジゼルの見せ場は、以下のとおり。
(1)登場
⇒ ミルタの合図で、ジゼルが墓場からゾンビ、じゃないウィリとして復活(?)。
登場時はなんとも無感情な表情をしており、人間ではない冷酷なウィリになってしまった雰囲気。

(2)墓を訪ねてきた恋人アルブレヒトと「感じる」だけの交信
⇒ アルブレヒトに気づいたジゼルは彼のもとに近づいていくのだけど、彼はウィリとなったジゼルを見ることはできない。でも、確かに彼はジゼルを感じるの。
この「感じる」だけという前提で踊る2人のパ・ド・ドゥは、男性のテクニックが必要なんだけど、これがうまくいってジゼルの重さを感じず空気に溶け込ませるようにして踊られると、とても美しいです。

(3)森番ヒラリオンが殺害されるのは完全放置だが、アルブレヒトは必死で守る
⇒ アルブレヒトよりも一歩先に墓場にきていたヒラリオンは、ウィリ達に力尽きるまで踊らされたあげく、殺されてしまいます。彼については、ジゼルは一切関知せず、殺されるがままにしています。
次はアンタよ!ってな具合に、ミルタを筆頭にしたウィリの群れの矛先がアルブレヒトに向いた途端、ジゼルは彼をかばい、一緒に踊りつつ彼が疲れ果てるのを食い止め、彼を死から救うのです(その後、ジゼルは墓の下に戻っていく)。

ウィリになると、乙女達は優しさを完全に無くした冷酷無慈悲な妖怪もどきになって若い男を貪り殺す、という前提がある中で、このジゼルの行動は完全に異質です。
ですが、ジゼルが異質である原因は、彼女に人間的な優しさが残っているから、ではないのです。異質さの原因は、特定の男性(アルブレヒト)への異常に強い愛情、これのみです。

それが執着にまで至らずに、ラストで彼を生の世界に返してあげる、という設定が秀逸で、ここが人気のある理由の1つでしょうね。


さて、ここまで見てくると、フィギュアスケートにおける「ジゼル」の特異性がお分かり頂けると思います。
まず、衣装が本丸の第2幕ではなく第1幕のものですし、たいていは幸せな恋の雰囲気と不幸せな狂乱の場面の2つをモチーフとしてピックアップしています。(中野さんのジゼルは、まさにそういうジゼルでした。)

つまり、フィギュアスケートにおける「ジゼル」は、バレエ「ジゼル」の本丸を攻めてない、ということになります。
もちろん、これには簡単に想像できる説得的な理由があります。2幕の衣装ではスケートはずばり滑り難いでしょうし、音楽の変化に富んでいるのは1幕だからです。

が、わたくしめは、キムヨナさんのSPは、是非2幕を意識したものであることを願います。
どちらかというと都会的な雰囲気のある彼女には、村娘の衣装が似合うとは思えません。また、2幕のジゼルはアルブレヒト以外に対しては完全ウィリと考えてよいので、1つの特定のもの(アルブレヒト)に対する強い思いと、それ以外に対する異常な冷たさの2つが並存しているという特徴があります。これは、おそらくキムヨナ選手にマッチすると思います。

ということで。

楽しみだなあ!!!!
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by koharu-annex | 2011-04-27 14:11 | フィギュアスケート女子

ジゼルについて(1)

皆様、お久しゅうございます。
いろいろ思うところは山ほど!なのですが、今回からは、通常マターの記事にさせて頂きますので、ご了承下さい。

さて。
以前から、キムヨナちゃんのSP(ですよね?)がジゼルであるということで、バレエ見のワタクシめの意見はどない?というコメントを複数頂いております。

そこで、今回は、まずバレエ作品「ジゼル」におけるジゼルとは、そもそもどんな少女なのか、というところからご説明したいと思います。

ジゼルについてなーんも知らないという方は、とりあえずウィキペディアのジゼルのページ(こちら)に、ざっと目を通してください(ただし、このウィキさんの記載の中には正確とは言い難い部分があります。たとえば、「主人公が死装束で踊る」というくだりとか。とはいえ、ざっくり把握する分にはウィキさんで充分です)。

ジゼルは2幕もののバレエですが、1幕と2幕では対照的な世界が描かれます。
1幕・・・生の世界、明るい農村の昼間、楽しい会話と踊り、恋人達のじゃれあい
2幕・・・死の世界、月光のみの夜の墓場、死の世界の踊り、死へ向かう踊り

このうち本来ジゼルという作品が描きたかった世界は、2幕の世界です。
これ、とても重要なので、きちんと説明します。

ジゼルは、18~19世紀にヨーロッパを席巻したロマン主義の流れの中にある、一連のバレエの代表格です。バレエ作品における「ロマン主義」というのは、ごく乱暴にまとめてしまえば、幻想的なものや異国的または地方色豊かで叙情的なものへの志向で、これに属する作品はロマンティック・バレエと呼ばれます。

ジゼルの初演は1841年ですが、後世よく研究されているバレエ作品の1つでして、ネタ元もきちんと確認されています。その主なものは、以下の2つです。

 ① マイヤベーア作曲オペラ「悪魔ロベール」(1831年)におけるバレエシーン
 ② ハイネがフランスで紹介したゲルマンやスラブ民族における精霊伝説

まず、①「悪魔ロベール」のバレエシーンというのは、悪魔が歌を歌うと、尼僧院のお墓から亡くなったはずの尼さん達の亡霊(ゾンビ?)が出てきて踊る、というものです。ついでに言うと、この尼さん達は全員、生前姦淫の破戒を行っているという前提があり、男性主人公を誘惑するという、設定です。

次に、②の精霊伝説ですが、概説が困難なので日本語訳を引用します。
「その地方で『ヴィリス』という名で知られている踊り子たちの幽霊伝説である。ヴィリスは結婚式をあげるまえに死んだ花嫁たちである。このかわいそうな若い女たちは墓のなかでじっと眠っていることができない。彼女たちの死せる心の中に、死せる足に、生前自分で十分満足させることができなかったあのダンスの楽しみが今なお生きつづけている。そして夜中に地上にあがってきて、大通りに群れなして集まる。そんなところへ出くわした若い男はあわれだ。彼はヴィリスたちと踊らなければならない。彼女らはその若い男に放縦な凶暴さで抱きつく。そして彼は休むひまもあらばこそ、彼女らと踊りぬいてしまいに死んでしまう。婚礼の晴れ着に飾られて、頭には花の美しい冠とひらひらなびくリボンをつけて、指にはきらきら輝く指輪をはめて、ヴィリスたちはエルフェと同じように月光をあびて踊る。彼女らの顔は雪のように真っ白であるが、若々しくて美しい。そして神秘的な淫蕩さで、幸せを約束するようにうなずきかけてくる。この死せる酒神の巫女たちにさからうことはできない。」(ハイネ著・小沢俊夫訳「流刑の神々 精霊物語」岩波文庫)

このネタ元が示すように、ジゼルの本丸は2幕の死の世界。
処女性を念頭においたちょっとだけエロい香りをまといつつ(当時としてはおそらくココが案外重要だと思う)、多くの女性幽霊どもが幻想的に踊って男に絡んでくる、というある種の雰囲気に満ちた世界観を見せること、これが念頭に置かれてる(現代ではかなり薄くなってますが)。

この2幕で、主人公ジゼルをこの雰囲気の真ん中に置くために、彼女には一旦死んでもらわなくちゃいけない。
そのために1幕は用意されていて、そこでは、彼女が元は生の世界にいたことを示し、亡くなって死の世界に来たことが分かるような展開がなされることになります。

この1幕で生から死への道筋を示す際に、後にウィリに絡まれることとなる男性を2人登場させたことが、「ジゼル」を今でも上演される大ヒット作にした要因の1つだと思います。(もう1つ絶対挙げたい要因は2幕の群舞の美しさ)
が、今回は、男性陣への言及は最低限にしますね。

1幕のジゼルの死ですが、正直、ちょっと無理があるのです。
踊りが大好きで、しかも、すごーく上手に踊れる少女ジゼルが、結婚前に突然昇天する、という展開をもたらすために、「ジゼル」が取ったストーリーは・・・



恋人の裏切りによる狂乱死



狂乱で死亡って。。。。うーん、無理無理です。(そのため、ここを自殺にしちゃうバージョンもあります。でも、キリスト教との関係で特定の国や地域では上演の際に問題が生じることが懸念されたりするらしいです。)
前提として、踊りは好きだが心臓が弱い、という昔の少女漫画のような設定をしていても、やっぱり苦しい。

しかも、恋人の裏切りが、「最近ちょっと村人のふりして美しいジゼルと戯れて遊んでたけど、実は貴族で婚約者がいた」って・・・そこも無理無理でしょ。

ジゼルは生まれも(←別バージョンあり)育ちも村娘のくせに、突然村に現れた得たいの知れない男を、怪しいと思わなかったの?
時々消えて、時々あらわれるって、そんな村人あり?
その男はどんな仕事をしてると思ってたの?
もしかして、フーテンの寅さんもどきと思ってた?でも、村娘にとって、働いてない男って圧倒的にあかんでしょ。
そもそも、立ち居振る舞いも、着ている服も(貴族の象徴である剣とマントは隠してるけど)、自分とは違う世界の人だと気づかないのは、いかにもおかしい。
恋は盲目といえども、恋、なかんずく10代の恋なんてものは、不安を必ず伴うもの、それは相手の男性の全ての発言と彼を取り巻く全ての要素への注目につながるはずで、そこに矛盾があることになんら気づかない、というのは、端的にいうと「おばかさん」です。

もちろん、彼は普通の村人ではないのでは?もしかして高貴なお方では?・・・と思いつつも、恋にまっしぐらということはあり得るけど、その場合は、心の奥底では身分違い等で結ばれない恋だと既に気付いていたはずで、狂乱にまで至るなんてますます無理がある。

という次第で、この「無理」をフォローするためには、ジゼル本人がそういう無理なことを実現しちゃう大変人である必要があるわけですよ。

つまり、結論からいえば、ジゼルってば、おばかさんで、客観的に物事を見ることができなくて、思い込みが激しくて、興奮し易い、とっても変わった女の子、という側面がある、と判断せざるを得ない。

ところが、このおばかで思い込みの激しい資質が、2幕で、精霊ウィリ(妖精と書かれることもあるけど、実態はゾンビとか、幽霊とか、悪霊とかその手の類)になった後においてすら、恋人を一途に思い、ウィリ仲間から彼を守り抜く、という変人ならぬ変ウィリにつながっていくわけです。

上記のことが確信犯的に設定されたことなのか、それとも偶然の産物なのかは分からないけれど、1幕で生じていた無理がそのまま破綻に進むのではなく、一応の落ち着きどころを見つけ、2幕で最終的に見るものを納得させる結論に至っている、という点は、バレエ「ジゼル」の素晴らしいところです。


次回は、以上を前提に、現代の「ジゼル」の見所と、これまでのフィギュアスケートにおけるジゼルについて。
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by koharu-annex | 2011-04-26 23:47 | フィギュアスケート女子
皆様、こんにちは。
コメントのご返信が遅れてて申し訳ありません。

私は、コメントを下さった日時の順にお返事をする、ということを基本としております。
が。
鍵コメで下さっているかたも多いので皆様には流れが分かりづらいと思うのですが、フランス杯の真央ちゃんに対する演技について、私の意見をもう少し出して欲しいというご要請を複数頂いております。
言われてみればコメント欄がいつもより微妙にナーバスっちゃあナーバスなので、今回は、ちょっとその点について書いておこうかなと。

まず、前提として確認しておきたいのは(いつものことだけど)、私にはスケーティング技術は分かりません。
ぼちぼち勉強してますし、こないだはコメントくださった方から小塚さんが「チェンジエッジ」とかいう技術を体現されているNHKの番組を教えて頂き、拝見いたしました。が、分からな過ぎて、卒倒するかと思いました。そういうレベルです、ワタクシ。

私の意見は、あくまで舞踊面に特化して書いてる亜流の意見です。
これは、特にチャンさんの一連の記事にコメント下さったご意見を拝読して再認識したのですが、私の「亜流」さは、私や多くの読者の皆様が想像しているよりもずっと「亜流」です。なので、私の意見をどこかで引用なさったり参考意見とされる場合はお気をつけあそばせ、ってことになります。

次に確認しておきたいことは、人の意見には、「事実認定」とその事実に対する「評価」の2種類があるということです。
「事実認定」というのは、例えば、「柔軟性が高い」、「後半にスピードが落ちた」というもの。
「評価」というのは、例えば、「(柔軟性が高いことに対し)見ていて気持ちが良い」、「(後半スピードが落ちたことに対し)体力の欠如やジャンプの不調が原因だろう」というものです。

私は、「事実認定」の記載において、冷徹で、容赦ないです。表現として現れた現象のみを事実として認定するからです。これはスケートに限らず、バレエのレビューについてもそうです。
なので、この部分だけ取り出せば、多くのスケーターに対して厳しいことを書いているはずです。
反面、事実認定がマイナスでも、それに対する「評価」については、例えば高橋さんの場合は「彼のことだから何とかするでしょ」という、マイナスとはいえない場合も多かったと思います。

このように、「事実認定」と「評価」というのは別物ですので、それを念頭において頂くとありがたいです。

・・・という前提のもと、真央ちゃんについて書きたいと思いますが、今、時間が無いので、取り急ぎここまででアップしておきます。
時間をみつけて、続きを書きますね。

ほな!

いきなり追記です。
アンチ浅田さん且つヨナさんファン(←皆様、この部分に過剰に反応しないで下さいね~、よろしく!)と思われる方から、えらく下品かつ誹謗中傷を内容とするコメントを頂きました。その方にここでご返信をば。

鍵コメであっても、褒められたことではありませんよ。

私の友達のことも書かれていましたから随分前から読んでくださっているのだと思いますが、内容は、私への誹謗中傷と受け取りました。私は、友達のリクエストに応えて自分の意見を表明したことはありますが、表明した意見自体は私の考えていることそのもので、言わされたものではありませんよ。しかも、私の意見に対し皆様から様々なご意見を頂き、議論が深まることについては、むしろ私は歓迎しているところです。反対意見があることも当然のことと考えています。

ですから、私はこれまで書いた自分の記事での意見について、修正はあったとしても根本を曲げるつもりは一切ありませんし、特定のファンの方達に困っているという事実もありません。したがって、あなたが示唆するように、特定のファンの方々を一掃するなどという乱暴な考え方には到底与することができません。

私が本館およびこの別館ブログを始めて以来、対応に困惑を覚えたのは、あなたからのコメントが初めてです。頂いた2つの鍵コメのように下品な言葉で人を罵り揶揄するコメントは、例え読者の皆様の目に触れなくても、私のブログ上に存在させるわけにはいきません。

したがって、大変申し訳ありませんが、頂いた2つの鍵コメは削除させて頂きました(内容や投稿情報については別途保存してあります)。もし、削除が気に入らないようでしたら、今度は鍵コメでなく正々堂々とオープンにして書いて下さい。

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by koharu-annex | 2010-12-09 11:37 | フィギュアスケート女子
後半に書いている真央選手に合いそうな演目について、青字部分を加筆しました。

前回の記事の最後にお願いした真央選手の「表現力」に関する、過去の論評や解説について、たくさんのコメントをありがとうございました。

どれも有益な情報で、大変勉強になるとともに、今回の考えをまとめるのにとても役立ちました。皆様、ご協力誠にありがとうございました。追って個別にコメント欄で返信させて頂きます。
(いや~実は、昨日、ジムでトレーニングし過ぎたせいで、ひどい筋肉痛でPC打つのもちょっとつらいのです。。。トレーニング後のストレッチの際、後ろに「ゴリさん」(ガレッジセール)がいらっしゃったらしくて、ジム友が後でこっそり教えてくれたのですが、「え?太陽にほえろ?」(竜雷太氏)と答えて、友を絶句させるほど脳も疲弊・・・)

さて。
音楽にあわせた身体表現って、演劇的な演目か否か、という観点から分類することが出来ます。
演劇的でない演目の主なものは、音楽的な演目です。これらを簡単に説明すると以下のようになります。

演劇的な演目」 ・・・バレエで言うと物語バレエですね。全幕ものは全てここに入ります。

音楽的な演目」 ・・・バレエにおける、明確なストーリーがないコンテンポラリー作品の殆どはこれに入ります。
    「音楽的な演目」は、音楽と表現者の主従関係で、だいたい次の3つくらいに分類できる。
     (1)音楽が主役
         「音楽を視覚化」した、といわれる類型はここに入る。
         表現者の個性はむしろ消して、音楽と寄り添い、音楽に同化させる。
     (2)表現者と音楽が同格
         表現者が音楽に新たに別の旋律を加え、あたかも二重奏の様相を呈する。
     (3)表現者が主役
         表現者の個性を前面かつ全面に出し、音楽を利用して、ある世界観を表現。


ここで、押さえておくべきポイントは、4つあります。

1つ目は、「演劇的な演目」と「音楽的な演目」では、目指す表現が全く異なる、ということです。
なので、その演目が「音楽的な演目」なのに、「演劇的な演目」における表現(そしてその表現からもたらされる感動)を求めるのは、そもそも無理な話です。世の中には、ここが分かっていない人が、ものすごく多い。

2つ目は、多くの人々は、「音楽的な演目」よりも、「演劇的な演目」の表現の方が好き、という事実です。
どのバレエ団においても、「演劇的な演目」の方がチケットの売上げが圧倒的に良いのは、このせいです。別ジャンルだけど、演劇的な「オペラ」「ミュージカル」という形式の方が、オペラ歌手やミュージカル女優によるリサイタルやコンサートよりも人気がある、ということもこの表れかな、と。
私は、バレエ好きの中でも、比較的、「音楽的な演目」も好きなタイプだと思いますが、残りの人生で観られるバレエの類型を選択しなければならないとしたら、迷わず「演劇的な演目」を選びます。

3つ目は、「演劇的な演目」の感想は素人でも雄弁に表現できるけれど、「音楽的な演目」の感想を文章で表現することは、プロですら非常に難しい、という事実です。
私も、バレエのレビューで、露骨にその傾向があります(笑)。「音楽的な演目」の感想を具体的に書こうとすると、ものすごく哲学的になっちゃって「誰も読まんわ」みたいな文章になるか、感想を書いている私自身の内面を書いたような、こっ恥ずかしい文章になるか、どっちかですわ。だから、「良かった」とか「素晴らしかった」とか、表面的な、通り一遍の文章で、さらっと終わらせることが多い。
プロの舞台レビューをみても、哲学的、内省的、あるいは文学的になり過ぎて一般人にはチンプンカンプン、という傾向はあると思いますね。そして、チンプンカンプンであるがために、ますます一般人が離れていくという、レビュアーが意図しない恐怖の悪循環がそこに。

4つ目は、演劇的な演目においては、表現者の個性がその「役」と違和感がない場合は、「演劇的要素」に助けてもらえることが多々ある(=簡単に「表現力」を評価してもらえる)、という事実です。特に表現の地力が小さい人は、その傾向が顕著です。
ちなみに、バレエダンサーのデビューは、物語バレエからです。いきなり筋なしのコンテンポラリーから入ることは殆どない。演劇的な演目では、「役」のキャラクターで表現の方向性を固定してもらえる上、お芝居のマイムという表現手段を加えることができるから表現力の底上げができる、さらに、ちょっとした動作、あまつさえ意図しない表情やしぐさまでも、その「役」に結びつけた「表現」として捉えてもらえる等々、何かとお得なんですわ。

と、ここまで書いたら、私が言わんとしていることについて、皆様、既にほぼ理解されたかと(笑)。

そう、真央ちゃんの過去の演目です。
シニアに完全に移行(という言い方でOK?)してからは、彼女には、「演劇的な演目」が皆無です。
彼女の演目は、「音楽的な演目」の中でも、彼女自身を主役にもってきた(2)あるいは(3)しか、やってません。(私の感覚では、(1)はないです。そもそもフィギュアでは、敢えて(1)をやる必要はありませんしね。)

私は、これは、ものすごく理解できる。彼女、逸材だもの。

以前、表現力に特化して考える~真央ちゃんの特異性という記事で書いたように、彼女の「自己」って、非常に壮大です。
なので、「演劇的な演目」で、彼女の表現に「役」という付加価値をつけたり、底上げをする必要はない。
しかも、下手に「演劇的な演目」を選択すると、演技をその「役」に閉じ込めてしまうことになり、彼女自身の全てを出すことができない。
そんなもったいないこと、振付家やコーチは、ゼッタイに選択しない、「真央自身」を全面に出して勝負したい、と思うだろうと、ワタクシ、勝手に想像する次第。

ところで、私は、上記でも引いた、表現力に特化して考える~真央ちゃんの特異性という記事の最後に、真央ちゃんが表現力が劣っていると言われているならば、考えられる理由は「技術が高い」ことにあることを指摘し、バレエの世界でも一般的に跳びぬけて技術の高い人はその有する表現力が過小評価されてしまう、ということを書きました。

私は、今でも、この「技術の高さによる表現力の過小評価」が、「真央ちゃんの表現力は低い」とされている一番の理由だと思っています。

ただ、こと「表現力」を世間にどう評価してもらえるか、好評価であったとしても、どのような言葉で評価してもらえるか、という観点から考えた場合、上で述べた勝負の仕方(演目の選択)が裏目に出たかも、とも思います。

あぁ、それと、「子供っぽい」という評価は、「くるみ割り」を引きずっているか、そうでないなら、クラシックな「お行儀の良い表現」を「子供っぽい」という言い方で揶揄しているかどちらかでしょうね。そういう方々は、おそらく、バレエのことも、「優等生っぽくて退屈」とか、「型にはまって面白くない」とか、そういうタイプの批判をされるのだと思います。それはそれとして、ある一つの見方である、と認識しておけばいいだけの話ですわね。

いずれにしても、真央選手の「表現力」に対する世間の評価は、「演劇的な演目」を選択することによって、かなり好転する可能性が高いと思います。

もちろん、私は、大衆迎合的に、「演劇的な演目」を選択すればよい、と考えているわけではありません。
正直、鑑賞者としては、あれだけ確立した「自我」の土壌の上に乗せられる、演劇的な演技、というものに、大変に興味があるんです。
しつこく私が引退シーズンだったら良かったのに・・・と言い続けている、集大成感漂う、「鐘」という演目を世界選手権でやり遂げた以上、「音楽的な演目」にこだわる必要は、もはやないとも思いますし。そういう意味では、違う分野に踏み出すには、良い機会なのではないか、と。

真央選手は、これまで「演劇的な演目」をやってないし、そもそも彼女は本来的には役者タイプではありませんから、トップスケーターとしての面目躍如!な、演劇的な演技をするためには、それなりの訓練と、コツの習得が必要になると思います。

が、吸収力が高そうな彼女のこと、そこは大丈夫ではないでしょうかね。
まあ、ぶっちゃけると、タラソワさんに、「恋をしなさい。」と言われていたそうですが、その通りですよ。片思いでもいいから、切ない想いの1つや2つ経験すれば、おそらくあっという間ですよ(たぶん)。

具体的には・・・
コメント頂いた方からの情報によると、実現不能のようですが、ジュリエットは、今でも私の一押し。
これは、チャイコフスキーじゃなくて、プロコフィエフの方がお勧めでございます。

それが無理なら・・・椿姫かな。美しい高級娼婦だけど、高潔なところと、深い慈愛がある。これは彼女の個性と重なりますから。
こちらは、オペラのヴェルディじゃなくて、バレエの「椿姫」で使われているショパンの方ね~。
バレエの「椿姫」には、リストのピアノソナタを使ったものや(アシュトン版「マルグリットとアルマン」)、ベルリオーズを使ったもの(牧阿佐美版)などもあるのですが、ここはショパンで。


白鳥、というご提案も頂いたのですが、これは「演劇的な演目」を数演目こなして、満を持してやって頂ければ、と。
白鳥はサンサーンスの瀕死の白鳥も合わないわけじゃないけど、真央女史にやって頂くのであれば、やっぱりチャイコフスキーでしょ。

と言いながら、私は、「!!…そうきたか~」とか、「こりゃ、一本取られた!!(ペシッ)」と思ちゃうような演目も期待してたりします(笑)。

ここは、いろいろ皆様のご意見があると思うので、コメントまってまーす。

それじゃ、おやすみなさーい!
新しい1週間、また頑張りましょーー
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by koharu-annex | 2010-05-31 01:38 | フィギュアスケート女子

さわりに「月の光」

5月26日午前0時23分、赤字を加筆しました。

私が、真央ちゃんの音楽性に惹かれたのは、ドビュッシーのベルガマスク組曲の「月の光」です(2008-2009のSP)。

真央ちゃんの演目では、確かオーケストラにアレンジされたものを利用していたと思うけど、皆さんご存知のとおり元はピアノ曲。ピアノをある程度やれば、やる(やらされる?)曲ですが、一応、譜面の最初の部分をご紹介。

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この曲、演奏するに当たって、ピアノの技術的には高度なものはないし、とにかく耳慣れしているのでとっつきやすい。

また、最初から最後まで8分の9拍子。つまり、曲を通してずっと3拍子系だから、拍子が取りやすい部類に入ると思うかもしれない。
でも、実は、この曲、音楽的なセンスが普通あるいはそれ以下の人間にとっては、テンポ感や、リズム感が崩れやすいんですわ。

一般的には、リズムが崩れやすいのは8分の9拍子なのに2連符(3小節目参照)があるためだとか、テンポが崩れやすいのはテンポの指定が途中である程度自由があるものに変わったりして(上ではまだ出てきません)、テンポが揺れるせい、などと言われたりしています。

が、私は、おそらく最も大きな理由は、「メロディの雰囲気に流されてだら~っとしちゃう。」からだと思う(笑)。私自身がそうでした。ははは。まあ、私は音楽性低いデスから。

そういう「雰囲気に流される」っていうのは、楽器演奏だけでなく、舞踊にも確実にある。どのようなジャンルの舞踊でも、いろんな曲調で踊った経験のある方はお分かり頂けるのではないかと。

私はこの経験があったので、真央ちゃんが雰囲気にだら~っと流される箇所が「一瞬もなく」、きちんとテンポとリズムを正確に感じながら踊っているのを見て、非常に惹かれたわけであります。

この話はここまで。
本題はここから。

ってところで、次回にさせて頂きたく。すんませんな~

コメントへのご返信も遅れてすみません。ちゃーんと読んでます。
で、頂いたコメントを拝読していて、ちょっと考えちゃったことがあって。。。
皆様にちょっとご協力をば仰ぎたいのです。

真央ちゃんの表現力って・・・・一体、世間ではどう言われて来たのですか?

私、2005~2007年の約3年、旦那の都合で海外に行っていたので、その期間言われていたことは全く知らないのであるよ。
しかも、帰国してからも、競技の映像は見ることはあっても解説とか適当にしか聞いてないことが多いし、雑誌とか新聞とかの記事も、特に目を通してないので、その手の情報は存じ上げないのです。

なので、「好き嫌い」の類の話ではなく、主にマスコミ等で、論評とか解説として、どういう風に言われてきたのか、教えて頂きたいと思うのです。
★すみません。動画の解説は、私の方でも把握するよう努力します。なので、私が自力で把握できない、過去の新聞・雑誌等における論評や解説をご記憶の方がいらっしゃたら、教えて下さいませ。

よろしくお願いいたします。
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by koharu-annex | 2010-05-25 23:34 | フィギュアスケート女子
中野さんの記事にかこつけて(?)、友から真央ちゃんの音楽表現についてメールがありました。
あと、同じく中野さんの記事をアップした際、真央ちゃんに言及されたコメントをいくつか頂いております。
かつ、私の書き方のせいで、若干、誤解を与えてしまったかなと思われるコメントも頂きました。

なので、まとめてクリアにしておきたく。

中野さんの記事の最終的な目標は、「火の鳥」の拍子取りが自前でできない私に、身体で拍子を取ってくれて、この楽曲の本当の姿を分からせてくれた事に対する、中野さんへの御礼コメントを導くことでした。

なので、表現者の有する「音楽に対する様々なセンス」のうち、特別に「拍子のカウント能力」にフォーカスして書きました。
そもそも、私は、拍子をちゃんとカウントできる、というのは特にバレエにおける「音楽性」と呼ばれるものの最も基本であり、バレエにおいて「音楽をよく表現している」ことの根本にはこの拍子カウントの正確性がある、と考えています。そして、中野さんがクラシックバレエの楽曲をよく使用されていることもあって、その視点から、中野さんを褒めて、且つお礼が言いたかったので、「拍子のカウント能力」にフォーカスしました。

しかし、「拍子のカウントができる」というだけで、「音楽を表現」できるかといえば、当然、そうではないです。
洋の東西を問わず、音楽つきの身体表現は、音楽の三要素のうちリズム、メロディ、そしてこの2つに密接に関連する、拍子、大小のフレーズ、音の強弱のほか、三要素の最後の要素であるハーモニーに関連する音の響きや音色、これら全てから構成される音楽の「世界観」を、全て意識して表そうとします。

なので、これら全てを完璧に理解して、それを完璧に身体表現に変換できる、というのがベストです。
もちろん、選手それぞれ、個々の要素へのセンスには凸凹がある。また、演目や振付によっても、上記の要素のうちいくつかを意図的あるいは仕方なく無視する、ということもあるでしょう。しかし、少なくともプロのダンサーや、アマチュアでもトップの方々が、能力的に特定の要素に対するセンスがゼロ、などということは有り得ないと思います。

なので、中野さんも他の選手も、拍子カウント能力や他の要素への能力全てを、当然にお持ちだと思っていい。あるのは、その能力のレベルの高低差だけです。
そして、中野さんの「火の鳥」は、このうち「拍子」に対する能力が高い、ということが良く分かる演目だった、ということです。もちろん、中野さんだって、「火の鳥」において、「拍子のカウント」だけで音楽を表現していたわけではありません。

中野さんの記事のせいで、上記に関連する誤解を招いたとしたら、言葉が足りませんでした。申し訳ないです。


さて、真央ちゃんですなぁ。
彼女は、拍子取りセンス(Aの能力)も音楽に対する他のセンスも比較的高いと思います。今更言うまでもないですが。私が、おぉこれは!と思ったのは、ドビュッシーのベルガマスク組曲の「月の光」のときですね。

ただ、本来「音楽性」って身体表現ではマイナーな美点ですから、一般論として、最初に褒められる点ではないですよね。しかも、真央ちゃんて、音楽に対するセンスのほかに、とても美点の多い表現者です。

なので、個人的な特別事情があった中野さんの音楽性は別として、「表現力」が過小評価されてる真央ちゃんに関することといえども、「音楽に対するセンス」だけ取り上げるのは、あまりにニッチ・・・という気がします。

ということで、次回になりますが、真央ちゃんのこれまでの「音楽的な演目」に対する小さな考察と、これからの「演劇的演目」の可能性について書きたいと思います。
(実は、この点については、真央ちゃんの記事のコメント欄に、ひっそりコメント下さる方々とまったりお話ししているのでした。笑)
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by koharu-annex | 2010-05-24 12:54 | フィギュアスケート女子
こちらは、本館の4月2日付け記事を、あらためてアップしたものです。


女子フィギュアスケート世界選手権フリーがスカパーなどで放映されていた夜中、ヨナちゃんのパフォーマンスが終わった後に、例の友から電話があったことは、以前書きました(こちら)。

その電話において・・・

友 「今、心配しているのは、未来ちゃんが金で、真央ちゃんが金を取れないかもしれないってこと

私 「可能性あるねえ。未来ちゃん、ポテンシャル高いもんねえ~

友 「そう?未来ちゃんは、完成度という点では、まだまだって感じがするけど。

私 「まだまだの点はあっても、あれは大器でしょ。まさにスター誕生というか。あの勢いが勝つってことは有り得るよ。

友 「いや、私が心配しているのはそういう話じゃなくて、変な採点方法で真央ちゃん包囲網が作られて、真央ちゃんよりずーーっと先があるのに未来ちゃんに金持ってかれて、今回もまた勝てないんだったら、真央ちゃんが可哀相すぎる!っていう話よ~

ということで、微妙に友と私との間で、観点にずれがあったことが判明(苦笑)。 

友が言ったのは感情論ではなく、ウィアー選手の発言(趣旨としては、フィギュアは政治的なスポーツで、その観点から自分は五輪ではメダルが取れないとわかっていた、というもの)や、客観的状況に照らしても、フィギュアスケート界がある種の思惑で動いている世界であることには間違いがないから、史上初めて日本男子(高橋選手)が金を取っている以上、女子にまで金を与える必要はない、という力学が働くのではないか、という懸念に基づくものです。(ウィアー選手の上記発言の続きが素晴らしく、彼が人格者であることを物語っています。どうぞ、ニコニコ動画のこちらをご覧下さい。)

根深いですよね。友の懸念を妄想と切り捨てることができないほどの、採点における違和感(世界選手権の女子についてはこちら参照)。日本スケート連盟が、改正ルールを国際スケート連盟に提案するとのことだけど(こちら)、どうなることやら。

それはさておき、友の声の向こうに、「Koharuちゃん、まさかとは思うけど、真央ちゃんの評価低い~?」、という呻きが聞こえたような気がするので(真正面から聞きにくいんだろうなあ…)、今回はその点についてちゃんと書こうかな、と。今まで、敢えて辛口に書いたこともあるけど、結論から言うと、私は真央ちゃんの表現力を、実は、評価してる。でも、ヨナちゃんの表現力の化けの皮をはいだ同じ口でそれを言うと、単なるえこひいきに思われるのが落ちなので、真正面から書くのがはばかられたわけですよ。

でもね、えこひいきと思われても、友に疑念を持たれない方が私には大事なので、今回は書くことにしました。友からお菓子と本をまた贈ってもらったし(笑)。もちろん、ご存知のとおり、私にはスケートの技術的側面や採点基準についての知識が圧倒的に不足しています。そのため、これらについては言及できませんので、あくまで表現力、なかんずくバレエや舞踊に通じる表現力に特化した記載となりますが、悪しからずご了承下さい。

さて。
私は、真央ちゃんは、「自分ではない何者か」を天然で表現できる、という能力については持ち合わせていないと思っています。高橋さん・鈴木さん・ウィアーさんの3人は、この能力の保有者だと思います。また、長洲さんにも、その可能性を感じます。(なお、私の言う表現者の能力については、過去に書いたこちらの記事をご参照下さい。)

しかし、真央ちゃんは、舞台上で(アマチュアのフィギュアの場合は試合で)、①自分自身を、②しっかりと外に向かって、表現できる、というレベルの能力はきちんと持っています。

①がヨナちゃんと、②が安藤さんと、それぞれ異なるところです。ヨナちゃんが、①自分自身を表現できないことは、過去記事に書きました(こちらこちらなど)。安藤さんは、エキシビションだけを見ると、外に向かって表現できるポテンシャルがあるように思えますが、試合ではかなりダウングレードします(あぁ、採点基準のような言葉を使ってしまった)。これは別途検討の余地ありです。

また、彼女は表現手段が豊富ですね。体が柔軟だから、様々な振付が可能だし、スパイラルのあの伸びやかなポーズは、あまりに正統派でほれぼれする。高橋さんや鈴木さんほどの、あからさまな舞踊感はないにしても、スタミナがあるから、パフォーマンスの後半でも、スピードが落ちず、かつ、振付のこなしが指先までの神経使いや首の角度にまで行き届いていて、手抜き感や隙が全く無く、見る側としては安心して「感じる」ことに集中することができる。

そして、ここからが重要ですが、真央ちゃんの有する①自分自身(自己)というのが、あまりに大きくて特殊なので、②外に向かって表現されるものも他の人とはスケールが違う、ということです。

私は、オリンピック後のこちらの記事のグループ分けで、プルシェンコさんについて、「表現力はBですが、強烈なカリスマ性でA以上の印象を残せる稀有な存在」と書いたのですが、真央ちゃんの「自己」の印象深さは、このプルシェンコさんに通じるものがあります。このような印象的なカリスマ性や自己を持っている表現者は、実は案外少なくて、とても貴重な人々です。

誰の「自己」であろうが、その内容を具体的な言葉で表現するのは難しいですが、それでは話が前に進まないので、私が感じる真央ちゃんの「自己」のいくばくかを無理やり言葉で表現してみました。

   ピュア、邪心が無い
   ノーブル、上品
   誇り高い、凛とした、強い自制心
   他者を尊重する
   他者と比べて競うのではなく自分と闘う
   競争心・闘争心が少なく逆に向上心が大きく存在する
   ただただまっすぐに自分が理想とする上を目指している
   その理想にけがれがない


これらはいずれも、世間において「良きもの」と捉えられている要素ですが、真央ちゃんの場合、どれもが比較的高度なレベルで融合していると感じます。そういう意味では俗人とはレベルが違った御仁ですね。これは彼女のお顔が、広隆寺の弥勒菩薩にそっくりだから、という理由だけでは説明がつかない。

また、彼女には、

   自分の決断・思想を貫く精神力が強靭
   思いっきり頑固


という、非常にストイックなアスリート(イチローとか藍ちゃんとか)に見られる要素も強烈に感じます。

そして彼女の意識とは関係ないんですが、受け手側として決して無視できないものを彼女は持っています。

それは、あの作り物ではない本物のお姫様オーラ。

幼少時から今までず~っと、いつも(←そう、「いつも」というところがすごいのよ)、キラキラした金粉が周りに飛んでるような、彼女が生まれながらにして持っている、あの雰囲気です。彼女の天性のアイドル性&スター性の源ですわ。

この姫オーラ、多くの女子が憧れて欲しがるものだけど、後付けで獲得できるものではありません。もちろん、高校や大学に入ってお化粧するようになったとか、熱烈な恋をしているとか、メディアに出始めたとか、環境・気持ちの変化によって後天的に「華」を得ることはあります。しかし、生まれつきのものか、環境や気持ちの持ちようで後天的に(且つたいていは一時的に)得たものか、という違いは、オーラの本質性において圧倒的に違う。

この姫オーラというのは、ことに表現者にとっては、他のものでは絶対に代替が利かない大きな力であり、まさに神様からのギフトです。もちろん役柄にもよりますが、バレエはもちろん、たいていの舞踊・舞台系における多くの演目で、極めて有利に働きます。

 ずるい?

はい、そうかもしれません。でも、仕方がないですよ。これは、ほんの極一部の選ばれた人にしか与えらないので、本来的に不公平に存在するものなんです。そもそも体を使った表現者の場合、遺伝子的に筋肉質か、脂肪がつきやすいタイプか、関節のソケットが浅いいわゆる二重関節を持っているか、ソケットが深くてどんなに柔軟をやっても180度以上の開脚ができないタイプか、というような体質・体型にまつわる要素によっても、かなりの不公平があるわけで。

とはいえ、この姫オーラタイプのライバルと競わなくてはならない人は本当に大変で、それこそ「ずるい!」と言いたくなるでしょうな。だって、努力ではどうしようもないんだもの。そういう意味では、安藤さんもヨナちゃんも、そりゃ大変ですわ。2人がそれぞれああなったのも(誤解を招く言い方だな。「王道路線というよりは、むしろ独自の表現の道を開拓せざるを得なかった」と言いましょうか)、ものすごく分かる気がする。
 
真央ちゃんの姫オーラについては、よくある姫オーラと異なる特徴があります。それは、上で述べたような真央ちゃんの「自己」と相まっているため、姫オーラの奥に、気高く且つ慈愛に満ちた女王オーラの萌芽があることです。

たいていの姫オーラはですね、「永遠のお姫様」的なものなんです。ともすれば、ぶりっ子、幼稚、勘違い、に転びそうな危険性をもっていたりする。ところが真央ちゃんのは、姫が成長して上品で風格のある女王となる姿をほうふつとさせる姫オーラ。あんなオーラを持つ女子なんて、世界中の表現者を探しても、そうそういませんよ。

ということで、真央ちゃんは、「自分ではない何者か」ではなく、自分自身を表現しているに過ぎないんだけど、他の追随を全く許さないほど彼女の「自分自身」がブリリアントな特殊性を有するため、外に表出されたもののスケールが桁違いに大きく、その結果、高い表現力を持つ選手のパフォーマンス以上の強い印象を残せる、というのが私の結論でございます。そして、このような「自己」と圧倒的な姫オーラを持つ彼女は、女性表現者としての表現の幅が極めて広い、といえる。これらに、表現手段の豊富さと、激しい振付を最後まで完璧に成し遂げられる体力と集中力があることも、あわせ考慮すると、やはり、彼女の表現力は相対的にかなり高い、といえるのであります。

ところで、真央ちゃんの特殊な自己とオーラを、演目に生かさない手はありません。その観点から言うと、「鐘」という演目はまさに真央ちゃんのもので、余人をもって代えがたいと思います。真央ちゃん自身が「鐘」にこだわったのも、意地になったというものではなく、ご本人はおそらく意識していないであろう、あの女王の萌芽と「鐘」という演目が共鳴したのではないかと思っています。

ただ。
演目は時を選ぶ、ということも事実です。

女子のフィギュアスケートは、アマチュアで活躍できる期間が極端に短く、20代半ばでベテラン選手と言われてしまう。40代でも小娘を演じられるバレエとは根本的に時間の流れが違う。そうである以上、客観的にはまだ若い20代でも、フィギュアの世界ではベテランと目される年齢で、いかにも若い子向けの演目では、「痛さ」が出る可能性がある。これは、逆に、客観的な年齢ではまだ早いと思われる演目でも、フィギュアに限れば比較的早い段階でOK、ということも意味します。しかし、演目に追いついていない背伸びした印象が、多くの場合ある種の違和感を伴う以上、私は個人的には、無理をせず、その時々の年齢に合致した演目を選択して欲しいと思っています。

ここで思い出すのが五輪。あのときは、若干、「鐘」と真央ちゃんの実年齢の齟齬が浮かび上がってしまった。あぁ、惜しい、この世界をこの子は持っているけど、ここではまだ早いという印象が出てしまった・・・と感じました。もちろん、世界選手権において、驚異の迫力でもってあの齟齬を見事に覆い隠した事実に照らせば、五輪のときもその齟齬を見せないで済んだ可能性は大いにある(この点の真央ちゃんのポテンシャルには、ただただ驚嘆するばかりです)。

でも、私は個人的には、「鐘」は真央ちゃんが引退する時にこそ合う演目だと、今でも思っています。 あの演目の、有終の美を飾る感というか、これまでの全ての出来事を神々しいものに昇華させるイメージは、別格だからです。
 
長々書きました。最後に、以前書いた文章をあらためて書いておきます。

彼女が、ここ数年、キム・ヨナちゃんと比べて表現力が劣っていると言われているならば、考えられる理由は、ただ一つ。

「スケートの技の技術が高い」から。

バレエの世界でも、ギエムやタマラ・ロホなど、飛びぬけて技術が高い人は、その有する表現力が過小評価されてしまいます。その類の被害者だな~という印象を受けています。

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by koharu-annex | 2010-04-06 00:12 | フィギュアスケート女子

閑話休題

こちらは、本館の3月30日付けの記事を、あらためてアップしたものです。

 
 それにしても、と思う。

 ヨナちゃんが、母国に利用され続けるのは可哀想過ぎる。

 かのカタリーナ・ヴィットさんも、母国東ドイツに利用されつくした挙句、壁の崩壊後はバッシングの嵐。 結果、アメリカへ移住するしかなかった。
 アメリカ移住後のテレビインタビューで、不自由な英語で、「ノー・ポリティック!」と手で遮るように言っていた、彼女の横顔を思い出します。

 もし、ヨナちゃんが、母国のスケート連盟、冬季五輪招致委員会、サムスンや現代などの大型スポンサー、その他CM契約をしている複数(トリノから帰って10社のCM撮りが待ってるとか)の企業等、様々な関係団体の意向で、本人の希望に反して、引退時期を延ばされたり、現役続行を強要されたり、はたまた一旦引退しても五輪前に現役復帰させられたりすることがあったならば、本当にお気の毒です。
 
 「自分だってそういう団体のおかげで甘い汁吸ってるんだから、それくらいガマンしなくちゃ。」と言うのは簡単だけど、いつのまにか取り込まれていたであろう、まだ20歳前のヨナちゃんに、全て甘受しろと言うのは酷というもの。

 私は、前回、ヨナちゃんの底意地の悪さを敢えて増幅して、表現に結び付けろとけしかけました。
 これは表現の鑑賞者に徹した際の言葉で、ひどく意地悪に響いたかもしれません。 確かに私は、鑑賞者として表現者を見るとき、冷徹といえば冷徹、残酷といえば残酷、そして意地悪です。

 が、それはそれ。これはこれ。
 ヨナちゃんが、客観的には、ここ数年採点されているような図抜けたスケーターではなくても、大きな大会で表彰台を争うレベルのスケーターであることは間違いなく、そのようなスケーターが、自分の将来について、自分の意思とは全く別の事情によって決断を迫られることがないよう、心から祈っています。
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by koharu-annex | 2010-04-05 23:07 | フィギュアスケート女子
こちらの記事は、本館の3月28日付の記事を、あらためてアップしたものです。


 イタリアはトリノで行われたフィギュアスケート世界選手権。
 日本時間の夜中だったのですが、キム・ヨナちゃんのフリー直後に、友から電話がかかってきましたよ(笑)。

 スカパーはもちろん他のケーブルテレビでも放映していましたし、PCでもカナダの放送が無料で見られるんですね。知らなかったわ。うちのケーブルテレビも調べたけど、ベーシックプランでは見られないチャンネルだったので、旦那がPCでカナダの放送を見つけてくれたので、その後、視聴。

 うんうん、なるほど。

 オリンピック後、ワタクシはこちらの記事で、現行の採点方法について、
 「あれじゃ、アマチュア「競技」の採点ではなくて、平均して 7~8割の実力を常に観客に観せることができるかということを前提にした、プロ「興行」の採点」
 と評しましたが、これは間違いですね。

 プロは、興行において失敗しちゃいけません。失敗しない演技を「常に」見せることが大前提です。この大前提があるからこそ、10割の力ではなく、7~8割の力だけれども、常にほぼ完全な演技ができるよう構成するわけです。

 そうである以上、「プロ興行の採点」においては、技術的に致命的な失敗をした場合や、表現がダメダメな場合には、採点が低く抑えられて当然です。
 ところが、キム選手は、LPにおいて、2度もジャンプを失敗したのに、そしておそらく故意に表現を放棄した適当な踊りだったにもかかわらず、選手の中で最高得点。

 これは、「プロ興行の採点」ではなくて、「キム選手にはどんなことがあっても目をつぶって加点する採点」としか言いようがない。

 このわたくしの結論に対し、「キム選手の表現力を評価していない。」というコメントがある方は、ご面倒ですが、過去記事(特にこちらこちら)をご覧下さい。 わたくしの目から見て、キム選手には、他の選手に比べて、「常に」大幅な加点が許されるような表現力はありません。

 わたくしは、フィギュアスケートの「表現力」について、あくまでスケートである以上は、同じスケート競技であるスピードスケートにすら存在し得る、スピード感・滑らかさ・しなやかさというものも評価の対象にはなるとは思っています。が、それ以上の評価の対象として、バレエやダンスと同類の表現力を求めて然るべき、と考えています。

 したがって、わたくしの基準から申し上げれば、キム選手が唯一表現できる「硬質なセクシーさ」が表現しきれていなくても、その「滑り」のみから「表現力」をお感じになる方は、スピードスケートの滑りにも、時として高い「表現力」をお感じになるはず、ということになります。
 しかし、そのような結果は、フィギュアスケートの「表現力」の判定としては奇妙じゃございませんこと?

 ついでに申し上げておきます。
 キム選手を攻撃する方が、時折、「キム・ヨナ選手の滑りは、フィギュア・スケートじゃなくて、ダンスだ!」とおっしゃることがあります。 
 ここでの「ダンス」は、おっしゃる方によって、同じフィギュア・スケートの「アイスダンス」を指すこともあれば、踊り一般の「ダンス」を指す事もあるようです。
 おそらく、これは、キム選手のけれん味のあるしぐさ(「パチン」と「バキューン」)の存在と、「硬質なセクシーさ」が感じられることを念頭に置いているのだとは思います。
 
 しかし、この発言、わたくし、とっても許し難いの。

 わたくしは、この発言を全てのダンサーへの侮辱と感じてしまいます。したがって・・・





ダンスをなめんな、ぼけぇっ!



 と思ってしまう次第(下品で失礼!)。

 あの程度の表現手段しか持たないキム選手に対し、ダンサーの呼称を与えることなど、わたくしは、多くのダンサー達のために、絶対に絶対に、ずぇったいに! できません。

 よろしいかしら。
 わたくしの中で、「ダンサー」という呼称は、「芸術家」と等しい言葉です。
 バンクーバー五輪と今回の世界選手権に限れば、フィギュアスケート選手で、ダンサーの呼称を与えてよい選手は、以下の3選手のみです。
 
 ● 高橋大輔さん
(今回の世界選手権で確信しましたが、彼は図抜けていますね。いますぐダンサーに引き抜きたいくらい。笑)
 ● 鈴木明子さん
 ●  ジョニー・ウィアーさん

ダンサーの有力候補は、以下の選手です。

 ● 長洲未来さん
 ● エイドリアン・シュルタイスさん
 
それ以降の候補順位は、こちらの記事のグループ分けをご参照ください。



 さて、前回、わたくしは、以下のように締めくくっております。

 「私が、いっちばん好きなのは・・・こういうダンサーにはこういう演目を、と考えることなんです。
 なので、以前、ヨナちゃんには「カラボスを」と言いましたが(こちら)、別途、日を変えて、これをもう少し説明させて頂きたいと思います。」
(*ここで「ダンサー」という言葉を使っているのは、一般論ですから!)

 ということで、今回は、キム・ヨナちゃんにぴったりな演目を検討したいと思います。

 前回書いたように、キム・ヨナちゃんの表現の幅は「硬質なセクシーさ」という極狭いものです。 
 この結論に至った時、すぐに私の脳裏に浮かんだのは、ミュージカル「シカゴ」のロキシー役。 ・・・でも、私、19歳のヨナちゃんに囚人のロキシー役を薦めるのは、正直、気が引けていたのです。

 しかし、今回の世界選手権ですよ!
 収穫がありました。
 
 ヨナちゃんって、
 あの年齢ではあり得ないほど、図太くて、ふてぶてしい!!!

 私は、表現者に性格の良さなど求めないタイプです。
 表現がよければ、それでよい。
 そんな私にとって、ヨナちゃんが、多くの人にとってはムッとするほど図太くて、イラつくほどにふてぶてしい、謙虚さとは無縁で、むしろスポーツ選手の性格としてはマイナスと評価される可能性が大きいという事実は、彼女にぴったりの演目を検討する上で大変有益な情報です。

 だって、ロキシー役をふってもちっとも可哀想じゃないし、むしろ、セクシーさに、あの図太さとふてぶてしさがあったら、ロキシーはまさにはまり役になるんですもの。

 ということで、是非、ロキシーに挑戦して欲しいーーー
 「下品」と評価する人は必ず出てくるけど、そんなの007の時から無視しているんだし。しかも、007のセクシーさを肯定した人の多くは、評価してくれると思いますので、それほど恐れることはない。

 なんといっても、アマチュアのフィギュアスケート選手で、ロキシーのセクシーさを躊躇なく前面に出してやり切れる人は、ヨナちゃん以外にいないから、あまりに貴重。 
 19歳とか20歳でやれる人、特にアジア人は、おそらく100年たっても出てこないと思う。

 ミュージカル「シカゴ」をご存じない方は、Youtube のこちらの動画をご参考になさって下さい。 絶対に納得するから!

 次に、私が当初から申し上げていた、カラボス(バレエ「眠れる森の美女」より)。
 カラボスは、お姫様に呪いをかける邪悪な妖精あるいは魔法使いですが、近年、格好よい斬新な演出が増えています。が、その根っこにあるのは、「悪」です。
 
 ヨナちゃんは、陰と陽でいえば、確実に「陰」です。
 荒川さんも「陰」ですが、ヨナちゃんの「陰」とは少し違う。荒川さんのは孤高かつ崇高な「陰」です。
 ヨナちゃんの「陰」は、「悪」に通じやすい種類の「陰」です。
 そうなったのは、真央ちゃんに対する「陰」な感情の存在が大きい。

 すなわち、ヨナちゃんは、ジュニア時代はずっと真央ちゃんの後塵を拝していました。
 その真央ちゃんは、誰から見ても、キラキラとした金粉をいつも振りまいているような、生まれついての愛らしいお姫様。
 ヨナちゃんは、自伝の中で、「どうしてこの子が私と同じ時代に生まれてきたんだろう」(うろ覚えです。表現は正確じゃないかも。)という趣旨のことを書いているほどです。

 この手の「陰」な感情を、ちゃんと真正面から捉えて欲しい。
 「私は何もかも手に入れている」(今回の世界選手権のインタビュー)という風に、奥歯に何か挟まったような意味不明の言葉でごまかさないで。 
 ヨナちゃん、あなた、本当は、


ここまで何連勝も私がしているように、私の方が『上』なの。
子供の頃みたいに負けてないのよ。
圧倒的に、真央が『下』なのよ。
今回は真央が勝ったけど、それは特別な事情があったから。
ジャッジも私の味方だし。
真央がどんなことをしようと、全て無駄よ。
今後、私に勝てることなんて有り得ない。
永遠に私より下であがき続けるがいい!
クイーンは、私なんだから!

と思ってるでしょう?

 そう思っていることを、ちゃんと真正面から認識してちょうだい。
 誰しもが「お姫様」と目している真央ちゃんを、憎んで、さげずんで、見下してちょうだい。 そうすると、ヨナちゃんは、「カラボス」の気持ちになれる。

 ヨナちゃんは、本来、表現力の地力が貧しいので、「硬質なセクシー」以外については、自分の持ってる感情を増幅させて、その増幅させた感情を外に表出するという方法しか残っていない。
 これが会得できないなら、ヨナちゃんは、二流以下の表現者で終わります。
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by koharu-annex | 2010-04-05 20:09 | フィギュアスケート女子