もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

踊る女達の柔らかい身体

酒場にて。都知事選の選挙費用に50億もかかるのに、あんな候補達がわらわら出てくるだけなら、別に猪瀬で良かったじゃないか、俺の税金返してくれ~!と話しているオヤジが。皆、オヤジに直接反応することはなかったけど、店内には妙に納得した雰囲気があったのでした。確かにトホホな点はあります、都知事選。

とか言いながら、今朝、選挙公報読んでたらドクター中松が「50トンの筋トレ、骨密度20才」って書いてて、爆笑してしまったわ。地下鉄コンコースでも「トン…」って思い出し笑い。あぁ不覚。

さて、先日「踊る男達」の時代に登場した「踊らない女」の話をしましたが、本日は「踊る女達」の話を。今回の主役は、ユリア・リプニツカヤちゃんです。

身体表現においては、柔軟性があるに越したことはありませんが、柔軟性があればそれで万事OKかといえば、そうは問屋がおろさない・・・というか、その先にまた新たな世界へのステップがあるのが、表現の世界の面白いところ。

GPF女子雑感(こちら)で以下のように書きました。
キャンドル・スピンに象徴される彼女の180度(以上)開脚を含む動作、なかんずくラスト前に脚を前から上げて靴先を身体の方に向けた上で、上半身の軸を脚の方に傾ける姿勢に対する、私の正直な印象は、少なくとも今の段階ではちょっと曲芸寄りだってこと。

その理由はおそらく2つ。1つは、ストレッチした筋肉で支えられたポジショニングではなく、かつ「型」が身体に染みついた上で行うポジショニングではなく、極度に高い柔軟性という資質だけで身体を曲げているから。これは、彼女がまだ子供の身体である点に負うところが大きい。

もう1つは抒情性に欠ける点。彼女は今季から表現にも重点を置いていますが(こちら参照。コメント欄もできれば)、おそらくこの180度(以上)開脚は技術的な注意が必要なのでしょう、これをやるときには殆ど素なの(笑)。その場合、彼女の少し無愛想な表情に重点を置くと、まるで極秘で開発された柔軟な骨と筋肉を、人工的なプログラムで動かしているかのような、ちょっとした無機質さを感じる。

今回はこれらの点について、ちょっとだけ掘り下げてみようかなと。

極めて高い柔軟性による造形に「曲芸」臭を感じるかどうかの最も大きな分岐点は、そこに「洗練」があるかどうかだと思う。

身体表現において「洗練」さを出すキーは、究極的には「型」かもしれない。
舞踊には、古典的ものでも現代的なものでも(ストリートダンスなんかでもよ!)、「型」ってものがある。「型」という堅苦しい言葉を使うとイメージが掴み難いかもしれないけれど、「静的」なものと「動的」なものに分けることが出来て、前者はざっくり言えば基本的なポーズで、後者は基本的な動き・・・と言えば想像し易いんじゃないかな。

「型」の自由度は舞踊のタイプで異なるけれど、いずれも目的は「舞踊」にあるので、単に柔軟性のあることを見せるための雑技団系の曲芸に比べると、足先・手先・首・目線などの身体の末端部分まで、方向やら力の入れ具合など、結構細かい部分にまで気を使ったものが多いと思う(舞踊においては、細部まで理想形であることが全てではないけれど、神が細部に宿ることもまた事実)。

ちなみに、特にストリートダンスなんかでは、静的な型よりも動的な型の方がずっと重視されてて、熱心に研究され種類も豊富、という印象を持っています。古典バレエでは静的な型も超重要であることと比較すると、ダンスの潮流の変化を感じるわ。今のダンスは、ムービン、ムービン、ムービン!だわね(gの発音省略)。

話がそれました。
それで「型」を基礎からきっちり身につけて、理想的な「型」通りにしようと思うと、必然的に筋肉は鍛えられ、伸ばすべきところはストレッチされ、また必要な柔軟性を獲得もし、「型」により適した、踊る身体になっていくわけです。身体が「型」に適したものになるに従い「型」が身体に馴染み、無駄なく、力みなく、美しく、淀みなく、しかも決めるべきところはきっちりと決めた「型」で踊ることができるんですわ。そうなるとともに、踊りが洗練されてくる。

その過程において、特にある程度の柔軟性があれば、形だけは「型」に近いものができるようになる。極端な例だけど、柔軟性がとても高くて勘所も良い人などは、バレエのお教室に通い始めたばかりであっても、アラベスクのポーズ(もどき)ができたりするの。だけど、こういう柔軟性だけで取られた「型」は、それ用に訓練してきた筋肉や腱など様々なフィジカルな要素に支えられた「型」とは、洗練さのレベル、ひいては美しさのレベルが違う。

柔軟性だけの「型」は理想的な形とは若干異なることに加えて、そこに「踊るために訓練された何か」が足りないことを感覚が捉えるんだと思うのね。そこに見られる形は、むしろ、踊るために訓練された柔軟性ではない「中国雑技団」系の形と、共通項がより多く感じられるというか。だから、ちょっと泥臭く感じることもある。

この泥臭いという感覚、アメリカのジェイソン・ブラウン君の踊りを思い出してもらえれば、分かり易いかもしれない。基本的に人って柔軟な身体を見ると快感を覚えるから、彼の柔らかい踊りって見てて気持ちいいし、私も好きです。ですが、ちと、この泥臭さを感じます(断じて彼のヘアスタイルのせいではない!…はず)。彼は男子だから女子よりも筋肉量は多いはずだけど、でも今は、柔軟性という資質で踊りを乗り切っている部分が多いと思う。

ユリアちゃんは、バレエのレッスンをちゃんとしているからでしょうが、「泥臭い」という感覚を明確に覚えるほどではなく、むしろ年齢の割に型がしっかりしてる方だと思います(同年齢のラジオノワちゃんと比較すると明らか)。それでもやはり曲芸臭さをうっすら感じるのは、やはりあのキャンドルスピンが尋常じゃないからでしょうか(笑)。

ですが、この点については上述したように、時を経るごとに訓練された身体に支えられた「型」になり、そこに洗練さが出てくると思います。でも、もしかすると訓練が行きとどいた頃には、ここまでの柔軟性は消えているかもしれませんね。あそこまでの柔軟性は子供の体型でしか発揮できない可能性があるからです。

次に抒情性について。
既述の通り、ユリアちゃんは180度(以上)開脚をやる時に「素」なんだけど、元々の彼女がちょっと無表情で淡々としているところがあるため、動作が人工的で無機質、イコール抒情性が欠如しているように感じてしまう。踊りとしての抒情性が欠如しているように感じると、踊りなどの身体表現よりもむしろ、踊りではない「曲芸」に親和性があると感じてしまうという、という感覚の流れはあると思うのね。

ただ、そのほかにも「慣れ」の問題もあると思っています。
この点に関しては、バレエダンサー、ギエムにまつわる有名な話があるのです。
シルヴィ・ギエムが颯爽と現れてバレエ界に旋風を起こした頃、彼女のやった「6時のポーズ」ってのがあったの。あれはロレックスの広告にも使われたから、バレエの舞台を見ない人でも知っている人は多いと思う。

あのポーズに象徴されるように、ギエムは、脚をそれまでのダンサーよりもぐーんと高く上げたんですよ。以降、脚を高く上げるバレエダンサーが増えて、今じゃ昔レベルの脚の上げ方をされた日にゃ、逆に「脚がその程度の高さに保たれていることによってしか醸し出せないエレガントさ」ってものが感じられない限り、鑑賞者サイドとしては物足りなくなってたりする。少なくとも今のトップダンサーは、脚を敢えて上げない場合や身体的制限から脚があまり高く上がらない場合、そのポジショニングによりエレガントさを追求しないと、見栄えの点でちょっと損をすると思う。

実は、ギエムが脚を高く上げ始めた当時、評論家も含めたバレエ界においては「まるで曲芸」「全く優雅じゃない」として批判的な声もかなり多かったそうなのです。オペラ座でギエムを指導したヌレエフは、彼女が脚をグンと上げる度、バシッと叩いて低い位置まで下ろさせたそうですよ(笑)。でも、直後にギエムは再び脚を高く上げるんですって!(なんちゅう頑固さ(笑))。オペラ座から移ったロイヤルでも、彼女の脚の上げ方は同様に批判されています。

でも、彼女の踊りは脚の上げ方も含めて確固たる地位を確立し、上述したように多くのダンサーがそれまでよりも脚を高く上げるようになった結果、今は「こんなの曲芸」と批判的に見る方がマイノリティだと思います。もちろん「昔のバレエの方が品があって良かった」という人は結構います。が、現実問題として、多くのダンサーがギエムに追従した(その理由が「素敵!」だったのか「私だってできる!」だったのかは、このさい関係ない)結果、ギエムのような開脚にバレエ界は「慣れた」。これらの点を捉えて、ギエム以前、ギエム以後、なーんて言われることもある。

ギエムが世界を変えたように、ユリアちゃんに刺激された他のスケーター達が「素敵!」あるいは「私にだってできる!」と思ってトライすればするほど、柔軟性を見せつける動作はよりスタンダードになる。そういう状況に進みだすと当然「曲芸臭」は霧散する。一方で、そういう状況になればなるほど、柔軟性を基礎にした造形美を持たない女子選手(代表格はヨナちゃんでしょう)の演技は、バレエ界とパラレルに考えると、「柔軟性のない造形であるが故の特別なエレガントさ(あるいは特殊な別の魅力)」を新たに獲得しない限り、一層目に劣ることになる。

ただ、スケートがバレエと圧倒的に違うのは採点競技であること。
現在の採点では、そもそもスパイラル、イーグル、バレエジャンプなど美しい姿勢かどうかが露骨に分かる要素においてすら、「純粋な造形美」というものに殆ど重きを置いていない。180度(以上)開脚についてはスピンで得点の上積みができるものの(回転速度やポジションの変化等々で)、「純粋な造形美」を殆ど汲み取ろうとしない今の採点の現実を考えると、例えば新体操のように点数のために当然のように180度(以上)開脚が必要になったり、イーグル等でターンアウトを基礎にした造形美が必須になるよう、採点基準が一足飛びに変更されるような事態は考え難い。

となると、柔軟性&造形美旋風が巻き起こると、今よりますます鑑賞者が感じる見た目と、採点との間に齟齬が生じることになるわね。

柔軟性のある「純粋な造形美」を持つ選手に(しか)魅力を感じない人は、今よりもずっと採点に不満を持つと思う(「多くの選手が出来ている造形を、あの選手はできていないのに、点数が同じなのはおかしい」とか)。

他方、そうじゃない人は、高得点が出る選手の魅力を理解しろ、その前に採点を理解しろと躍起になって吠えるでしょう。(ちなみに私は今でも吠えられたことがある。前回のヨナちゃんの記事でも韓国籍と思しき人から、ルール等について嫌味なご説明を書かれたあげく「ソチ五輪で鼻をあかしてやるのが楽しみ」 とコメントが入りました。ま、そもそも私は美しいものにしか興味がないので、メダルや点数なんかであかされる鼻は持ってませんが。)

吠えられた経験のある人間からすれば、うっとーしさ倍増(笑)。もちろんヨナちゃんほど柔軟性&造形美を無視しながら高得点をゲットし続ける選手ってのは、当分出てきそうにないので(そういう意味ではヨナちゃんはレア物、韓国が冬季五輪のために国力かけて生み出した時代の徒花スターかもしれません)、杞憂に終わるでしょうが。

という次第で(?)、実はワタクシ、若手ロシア勢が出て来たスケート界の選手側(採点を決める運営サイドには期待してない)が、ソチ後にどのような演技に向かって行くのか、その方向性に今から興味があります。




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by Koharu-annex | 2014-01-30 15:26 | フィギュアスケート女子