もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

「雰囲気で勝負する人」の評価~応援目線か評論目線か

身体を使った表現者には、「雰囲気で勝負する人」っていうのがいるんですわね。

ここでいう「雰囲気で勝負する人」というのは、技術(演技力や情感を込める技術も含まれる)はぴかイチではないけど、独特のオーラのようなものを持っていて、舞台上で特有の雰囲気を出すことができる人、という意味です。

なので、技術もぴかイチでオーラもある、という人は含まれません。
逆に、技術そこそこ、オーラもなし、という人も入りません。(プロでも群舞を含めると数としてはこのタイプが最も多い。)
また、以前は身体能力を生かした技術で売ってたけど、年を重ねて身体能力が減退するに従い、役者のような演技や情感を込める技術が高くなり今はそれで売っている、という技術種類の転換に成功した人も含まれません。

「雰囲気で勝負する人」には、多くの場合、ファンがついています。

その理由は、3つあります。
1つめは、「雰囲気で勝負する人」というのは、そもそも美形またはスタイルの良い人が多くて、そこに惹かれる人が存在するからです。
2つめは、ルックスはさておき、その有するオーラや雰囲気が好き、という人が存在するからです。(とある女性表現者の、顔はともかくエロい雰囲気が好き、という男性はここに入る。笑)
3つめは、「雰囲気で勝負する人」の一定割合は、昔はぴかイチの身体能力を持っていたけど今は失くしてしまい、演技派・情感派への転換もうまくいかなかった人なんですが、昔のファンの一部がずっと応援し続けてくれるからです。

これらのファンの存在が、初めてその「雰囲気で勝負する人」を観る人に、正当な評価をさせないことがあります。人の心理として、「こんなに大勢のファンがついているってことは、きっとスゴイ表現者に違いない」、あるいは、「こんなにファンがついている人の素晴らしさが分からない自分が、勉強不足に違いない」、などと思ってしまうからです。

特にその表現者が昔技術を持っていた人である場合、ファンは表現者のほんのちょっとした動作からも、昔日の高い技術の残滓を嗅ぎ取り、それを過大に評価する傾向があるので、なおさら新参者の鑑賞者を混乱させることがあります。
もちろん、そのほんのちょっとした動作が、身体能力を失ったその表現者が見出した究極の表現であることもあるわけで、それはそれで評価の対象にはなり得るものです。しかし、そのようなケースは、極めてまれです。しかも、そのような究極の表現というものは、鑑賞者にも極めて高いレベルの鑑賞眼を要求するものであり、おいそれと見極めることはできませんから、少なくとも普通レベルの鑑賞者は無視しても構わない事項といえます。

ところで、メディアというものは、自社が後援する公演の宣伝のために、その出演者について、評論目線の形式を使って、一方的な応援目線で評価したコメントや文章を盛んに発信します。

これと同じことを、多くのファンの方達は、無意識にやってのける。
もちろん、どの世界においても、ファンの発言というものは、その多くが応援目線で発せらます。これは当然のことで、そのことに全く問題はありません。

しかし、やっかいなことは、ファンの方自身が、ご自身の発言について、客観的には応援目線からのものであるにもかかわらず、主観的には評論目線からのものであると思っている場合があるということです。

さらにやっかいなことは、マスコミについては「自分とこが後援してるからね~」と懐疑的に見ることができても、経済的な利益が直接には感じられない、一般人や一部の評論家・解説者の発言については、それがファンの応援目線からのものではないか?という疑問を、その評価を参考にする側が持ちにくいことです。

ある表現者に対する評価を検討する際、それが応援目線からのものなのか、純粋な評論目線からのものなのか、常に気をつけて見極めるべきです。
そして、その際には、形式的には客観的な立場で発していると思われる一般人・評論家・解説者の中にも、公言していないだけでファンがいる、という事実を忘れないことです(ファンであることについて、潜在意識にあるだけで、ご自身が認識していない場合もあると思います)。

このポイントは、対象となる表現者が「雰囲気で勝負する人」であろうがなかろうが、常に持っているべきものでしょうが、私が見たところ、「雰囲気で勝負する人」の評価について最も問題が多い気がするので、敢えて指摘しました。

ご自分の鑑賞眼(審美眼)を信じること。それが一番です。
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by koharu-annex | 2010-08-20 16:22 | 考察(フィギュアスケート含む)