もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

<後編>「音楽を表現する」って? 中野さんへの感謝をこめて

前編で、私は、中野さんには、音楽に寄り添い音楽と同化する方向性の優れた音楽性(Aの能力でかつレベルが高い)があると申し上げました。また、中編で、この音楽性のレベルは、拍子取りが難しい曲で、なおかつ拍子が分かっていないとできない振付じゃないと判断できない、ということを申し上げました。

そしたら、例の友から苦情がきました・・・くどい、結論から書け、だそうです。はうー。
20年来の友人に、自分のブログに書いた文章でダメだしされる私。
私も暇人だけど、彼女も暇だよな~(お互い子無しだからか?)
帰納法と演繹法のことまで書かれてあったよ。はうー。
でも、また異常に美味しいお菓子を送ってくれたので、我慢します。ううう。

では、結論から。
ワタクシの感覚では、中野さんの「火の鳥」は、結果的に音楽が主役の演目になっていたところ、中野さんの演技は音楽に同化してその音楽を紡ぐ素晴らしいものだった。
これは、「音楽を表現する」という言葉の、直球ど真ん中のコアな定義に合致するものである。

で、ワタクシめが考えた理由。
中野さんの「火の鳥」は、敢えてねらった部分と、ねらってないけど結果的にうまい具合にそうなったという偶然が重なって、「音楽を視覚化」するタイプの抽象主義バレエに非常に近い演目になっていて、かつ、そこに中野さんの音楽性がドンピシャにはまったから。

上記で全てを言っているんですが、とりあえず、おしゃべりな私は補足したくなるので、以下お暇な方はお付き合いクダサイ。

舞踊の評論において、時折、以下のようなことが言われることがあります。
振付を含め当該パフォーマンスが優れているか否かは、音楽の聴こえ方で分かる。
優れたパフォーマンスの場合は、音楽があまり聴こえない。
そうでないパフォーマンスの場合は、いつもよりずっと音楽が聴こえる。


私は、この指摘は、半分当たっているけど、半分はずれている、と考えています。

当たっていると思うのは、「そうでないパフォーマンス」の場合に、音楽が悪目立ちするという感覚。
音楽を使った身体表現では、何らかの理由によって(振付が音楽とあまりに乖離している、実演者の技術不足・振付の未消化・表現力不足などにより色んな意味で音楽とずれる、など)、舞台上のパフォーマンスと音楽の間にどんどん距離ができていってしまうことがあるんです。

この場合、大げさにいえば、身体表現と音楽演奏という2つの表現が、同一場所で平行して勝手になされている感じになる。そうすると、「身体表現を観る」という目的からすると、ものすごく音楽が邪魔というか、時として、雑音あるいは妨害音のように「鳴り響く」ことがあるんです。(しかも、身体表現もいけてないから、まさにトホホとしか言いようがない状況)

だから、「いつもよりずっと音楽が聴こえる」の「聴こえる」の前に、「うるさく」という言葉を入れたら、しっくりくるかな。
私の経験では、バレエの場合、「白鳥の湖」のラストで起こることがある(白鳥のラストはことのほか音楽が強いことも関係していると思います)。

はずれていると思うのは、「優れたパフォーマンス」の場合。
確かに、演劇的な演目など、効果音やバックミュージック扱いで音楽が使用されている場合は、演目自体における音楽の地位が相対的に低いですから、優れたパフォーマンスのときに「音楽があまり聴こえない」ということがよく起こる。観てる側が演技に集中しちゃってますからね。

だけど、「音楽を視覚化」しているタイプの舞踊類型の場合、優れたパフォーマンスのときに「音楽があまり聴こえない」などということは起こらない。
この場合、音楽は、「より鮮やかに」聴こえるんです。

その理由をつらつら考えて、私が行き着いた結論は、普通の人が音楽をただ聴いているだけでは捉えきれない拍子やメロディの強弱やリズムを、目に見える舞踊という形で表現してくれることにより、音楽を「耳」だけでなく「目」からも感じて、それを脳と心で一体化できるから、ということ。
これの例として私が一押しなのは、バレエダンサー吉田都さんの「ラプソディ」です(音楽は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲)。

ここで、中野さんの「火の鳥」に話を戻します。
前回申し上げたように「火の鳥」は物語バレエですが、主人公は火の鳥ではなくイワンという男性で、この物語の中で火の鳥とは全く別のお姫様と結婚してハッピーエンドです。

では、火の鳥とはどういう存在かというと、そこは議論のあるところです。
私は、手塚治虫さんが漫画「火の鳥」で行っている解釈、つまり時間も空間も超越した存在、というのが一番しっくりきます(なお、手塚さんの漫画「火の鳥」は、バレエ「火の鳥」をみて触発されて創作されたと言われています。念のため)。

つまり、イワンやお姫様などと違って、「火の鳥」そのものには人間的な個性がなく、あるのは、一種哲学的な善悪の判断、のようなものです。
これは、中野さんから感じられる、「自分の中で良いと思っていること、なすべきこと、などがはっきりしている」、という印象とちょっと重なるところがある。
それは、私のようにうるさく、表現者の個性と演目のマリアージュを要請する者を満足させる。

他方で、中野さんは、自分自身の「善と捉えるものがはっきりしている」という印象を、強烈に前に出すわけではない(出す能力が低いかもしれないという可能性は、ここでは検討する必要なし)。少なくとも「火の鳥」の演技においては、自分自身を表出することについては、とても謙抑的な印象を受ける。
これが、また良かった。「音楽が主役」感がすごく出ていた。

ここまでは、おそらく偶然だと思う。
これからは、敢えてチーム中野(?)がねらったこと。

トラヴィンスキーの音楽「火の鳥」は、拍子取りが簡単な曲ではありません。
しかし、中野さんの「火の鳥」の振付は、音楽との密着性が非常に高いものでした。Aの音楽性を持っていないと、つまりきちんと拍子をとってそこに振付をこまかく割り振っていく能力がないと、消化するのが難しい振付だと思います。

「火の鳥」が何度もフィギュアスケートで使用されていることは存じ上げておりますが、このような音楽と密着度が高い振付は、私の限りですが記憶にありません。
例えば、今回の五輪のライサチェクさんも「火の鳥」でしたが、その振付は、フレーズ単位で把握できるタイプで、「火の鳥」の音楽そのものとの密着性は高くない。少し振付を変えれば、ほかの曲でも代替がきく印象です。(ついでに言っちゃうと、ライサチェクさんの衣装は・・・なんで黒い羽つけてんですかね?火の鳥が焦げた・・・アワワ。あの衣装にするなら、白鳥の湖のロットバルトで行った方が良かったんじゃあ・・・)

中野さんに対して、こういう音楽的な振付をしたということは、振付家のズエワさん(とおっしゃるのですね。今回学びました。)は、中野さんの音楽性を高く評価していて、そこを前面に出そうとしたのではないかと勝手に想像しています。ちなみに、EX「ハーレム」の宮本さんの振付からもその印象を受けました。

そして、あの衣装。
賛否両論あるようですが、彼女の拍子取りが極めてよく分かる衣装でした。
疾走感のある曲調の部分では、身体が流線状に変化する印象を受け、音楽への同化感を助長する。

そして何より、実際の中野さんのパフォーマンスは、文句なく音楽的でした。
スピンやジャンプですら、彼女の内なる拍子に基づいてなされていたように、極めて音楽的な流れがありました。
私が「火の鳥って、こんな音楽だったんだ!」と思えたのは、私が自分では絶対に捉えきれない「火の鳥」の拍子と独特のリズムを、中野さんが身体で見せてくれたからです。

私は、「火の鳥」の音楽については、そのメロディを、あたかも単なる途切れ途切れの糸(しかも色もまばら)のようにしか把握できないんです(私にはAの能力はありません)。しかし、中野さんがその身体表現で、きちんとした拍子と独特のリズムを見せてくれた。これは、私の把握できるメロディを横糸とすると、縦糸の存在とその色を見せてくれた、ということになります。
そのおかげで、私は、「火の鳥」という音楽を、一枚の美しい布として把握することができました。あまつさえ、そこに描かれた紋様さえ、私は感じることができました。

ちなみに、中野さんの「火の鳥」の演技の中で、私が一番音楽性が分かると私が思うのは、TEB(?)の演技です(こちら)。
私は、何度も見直したし、そのたびに画面の前でブラボーと言いながら拍手をおくりましたよ。

中野さん、本当に・・・ありがとうございました。
何度もバレエ「火の鳥」(たぶん小1時間くらい)を観ても、ちっとも経験できなかったことを、あなたの4分間の演技で、私は一気に経験することができました。
相変わらずストラヴィンスキーは苦手ですが、中野さんの演技を観ているときだけでも、「火の鳥」の音楽を美しいと思えることは、私の宝です。
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by koharu-annex | 2010-05-17 17:18 | 考察(フィギュアスケート含む)