もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

「滑らか」だから「芸術」?大いなる誤解の理由を考える

先日アップした記事で、私は、フィギュアスケートが「スポーツ」か「芸術」か、という争点の立て方はトンチンカンなのではないか、という意見を書きました。

実は、これって、前提でして。私が本当に書きたかったことは、この続きです。

ちょっと昔のことになりますが、五輪の女子フリーが終わった後ですよ、私の知人がですね、「真央ちゃんのプログラムはチャカチャカ動いててうるさかった。キム・ヨナのは滑らかでスムーズだった。真央ちゃんを応援してたけど、キム・ヨナが滑らかだったから、芸術性ではヨナの方が高いと思った。」とおっしゃったわけですよ。

同種の意見は世間でよく見受けられます。極端なものになると、「フィギュアスケートは『芸術』カテゴリに移すべき」という考えを前提に、概要、「ジャンプは跳ぶ前に体が前に沈むので、流れを止めてしまって滑らかさを損なう。これは芸術的観点からはマイナスである」とした上で、あげく「3Aを演技の中に完璧に溶け込ませたら芸術として認める」という趣旨の主張をする荒唐無稽な説も。

上記のうち「芸術」カテゴリ論がトンチンカンだというのは、以前の記事に書きましたので今回は触れません。今回取り上げたいのは、上記のような考え方は、お話している人達はあまりにも気楽に話しているので自覚がないのかもしれませんが、結論として、「大きな動作あるいは多数の動作をしないで『滑らか』な見かけを作ること」が、「『芸術』の唯一の条件である」、と言っていることと同じであるけれども、それはひどく奇妙だ、という話です。

ちなみに、上記のような考え方は、ヨナ選手と真央選手に関連させて初めて生じたものではなく、伊藤みどりさんの頃から、しばしば世間に噴出しています。私は、この考え方は、はっきり言えば「誤解」だと考えています。今回は、この昔からある「誤解」を取り上げます。したがって、ヨナ選手の演目の評価からは外れますので、その点よろしくご了承ください。

では、始めさせて頂きます。今回も長いので、お茶でもご用意なさって下さいまし(笑)。何なら何日かに分けて読むとか。

まず、あらかじめ確認しておきますが、「滑らかさ」の中には、「実はとっても高度な技術を必要とするけど、その技術の存在を知らないとそれを全く認識できずに、単に『滑らか』という印象しか残らない」という種類の「滑らかさ」というのがあります。(最近、私が観た例では、パリ・オペラ座の東京公演「ジゼル」で、マリ・アニエス・ジロによる脅威のパドブレの足さばきによるレールの上を引かれているようなミルタ、というのがありましたが、これはまた別の記事にて。)

しかし、私が問題視している考え方は、裏にびっくりおったまげな技術(たとえば上のジロのパドブレに匹敵するようなスケーティングの技術)がある「滑らかさ」を褒め称えているわけではないことは、その言いっぷりから明らかです。彼らが言っている「滑らかさ」というのは、滑らかな印象の中でもとりわけ、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」です。

この種の「滑らかさ」というのは、高度な振付でないスローテンポの舞踊、ぶっちゃけて言えば、バラード系の音楽に、ダンサーが音楽のテンポに完璧に合わせられる程度の平易な振付を施した舞踊であれば、ほぼ間違いなく得られる典型的な印象、といえます。逆にいえば、そのような舞踊で、滑らかな印象を残せない表現者はあまりに技術が稚拙すぎて、お話にならないので議論の俎上に乗りません。バレエにおいて、この「滑らかさ」を用いる代表的な例は、多人数で踊る群舞が、枯れ木の賑わい的に使用される場合です(そうでない群舞もたくさんあります。念のため)。しかし、この「滑らかさ」だけをもって、ソリスト以上のダンサーの完成度の高い舞踊を成立させることは、ほぼ有り得ません。観客を魅了する要素が圧倒的に足りないからです。

もちろん、「滑らか」な印象を残す演目が、芸術の一種である「体を使った表現」の1つの類型であることは確かです。しかし、あくまでそれは一類型です。裏に高度な技術がある「滑らかさ」だって、この類型の中の一種類に過ぎない。技術と要素がぎっしり詰まっている舞踊も、それがあからさまに分かるものも含めて、立派な「体を使った表現」の一類型です。

したがって、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」が「好き」というのはおかしくない。だけど、「だから芸術だ」というのは、それ以外の類型の「体を使った表現」を、その芸術分野から排除することを意味し、明らかに奇妙です。どれくらい奇妙かというと、「静物画だから芸術だ。」といっているのと同じくらいに奇妙です。「静物画だから芸術だ。」という考えは、風景画、人物画、抽象画などの他の類型の絵画を、「絵画芸術」という分野から排除する意味を持っています。しかし、こんなこと言う人、いないでしょう?

問題は、絵画の分野でそんなアホなことを言う人なんていないのに、どうしてフィギュアスケートの場合には、突然、「滑らかだから芸術」、なんて言う人が出てくるのか、という点です。

私は、その答えは、ずばり、経験値だと思っています。

「滑らかだから芸術」と言っている人は、その意味を深くは考えてないんだろうけど、絵画については「深く」考えないでもアホなこと言わないんですよ。なんで、アホなこと言わないかというと、経験則上、絵画にはいろんな種類があると誰でも知っているからです。

ところが、フィギュアスケートに関してはもちろん、舞踊に関しても、多くの人は絵画に比べて圧倒的に鑑賞経験が少ない。当然、知識も浅薄で、「民族舞踊」「社交ダンス」「バレエ」というようなカテゴライズくらいしか知らない。例えば、「静」のイメージ・「動」のイメージという分類や、「演劇的な演目」・「音楽的な演目」という分類の仕方で、ジャンルを越えて仕分けできることを、多くの人は知らない。

バレエのことを、よく優雅・滑らか・ゆったりなどと言っている人がいますが、バレエにはそうじゃない演目だってたくさんある。むしろ、主役のソロの踊りの多くは「優雅」という言葉の印象よりも、ずっとずっと、かな~りアクロバティックだと思いますよ。民族舞踊、社交ダンスなど他のジャンルの舞踊でも、何度かちゃんと鑑賞すれば、一般的なイメージと異なる演目が多数存在することはすぐに分かります。お能だって、静かで眠くなるような演目ばかりじゃなく、主役が空中で回転するようなドッタンバッタンな演目だってあるんですよ。だけど、舞踊を鑑賞しない人は、そんなこと全く知らない。

一般的に、鑑賞経験がないと、「美」を感じる感知センサーは、勢い、その程度が「それなり」のレベルにとどまってしまいます。自分がそのジャンルについて持っているイメージに合うものだけを、無意識に取り出してしまうからです。しかも、人間というのは、自分が綺麗だと思ったことのみ「美」であると考えてしまう傾向がどうしてもある。そうすると、他の類型にも「美」が存在するという知識がなければ、自分のイメージや好みに合う類型のもののみを「美=芸術」である、とする思考に陥りがちです(なお、美=芸術かどうかはとりあえずここではおいておきます)。

さらにたちの悪いことには。

舞踊において、「大きな動作や多数の動作をしないことから生じる『滑らかさ』」という種類の「滑らかさ」というものは、実は、ひっじょーに、一般受け・素人受けしやすい。

しかも、フィギュアスケートの場合、鑑賞歴が浅い人ほど「氷の上」ということが頭から離れませんから、なおさら「スケートにおける芸術」=「滑らかさ」という思考が、当然のように形成されると思う。
(じゃあ、スピードスケートは芸術的じゃないの?というツッコミは考えないんだろうと思われます。ちなみに、私は、個人的にスピードスケートのコーナリングには、時に非常に「美」を感じるんです。なので、同じスケート競技の中でも、スピードスケートと異なるフィギュアに特異な芸術性として、重きを置くべきなのは、舞踊と同種の「美」だと思っています)

と、ここまで書いておいてなんですが、「滑らか」さを単純に綺麗に思っている人はまだいいんですよ。私が、あらら…と思っているのは、「何もしていないことから、何かを感じるのがえらい。」という、意味不明の評論家ぶった考え方から、「滑らか芸術論」を唱えることです。これは・・・正直、およしになったほうが良いと思います。とても格好悪いです。
[PR]
by koharu-annex | 2010-04-22 17:55 | 考察(フィギュアスケート含む)