もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

「スポーツ」か「芸術」か?もしかしてトンチンカン?

【アップ後、末尾の青字の部分を加筆しました。】

一般的に、バレエ、ダンス、舞踊などの「体を使った表現」の場合、表現者の行う具体的な表現は、その全てが、体を使う確かな技術に裏打ちされたものであることが理想です。したがって、「体を使った表現」においては、

動いて、なんぼ

動けて、なんぼ というのが基本です。

私達は、①その「動き」に惹きつけられるとともに、②その「動き」に表現者が込めた情感を感じ取り、心を揺さぶられるわけです。

そうであるからこそ「体を使った表現」では、観客に①と②の「両方」を与えることを目的とします。表現者はその目的に沿って、①を与えるために技術を磨き、②を与えるために表現力を磨くのです。

表現者によって、与えられる①②のバランスの類型は多々あります(前回の記事で述べた「技術が高い人は、その有する表現力が過小評価される」というのは、①が高すぎて②が相対的に低くなるという、1つの典型例)。しかし、①を与えることを放棄すると、②を与える前提が消えてしまいますので、①を放棄することは決してありません。

念のため確認しておきますが、①の「動き」には技巧的な動きも含まれます。例えばバレエの男性ダンサーのソロのヴァリエーションの基本は、

とんで はねて 回ってなんぼ

ですから、跳躍と回転に関する技術も当然に含まれます。女子のソロの場合には、

ステップ踏んで 回ってなんぼ

ですから、技巧的なステップの技術と回転の技術が、当然に含まれます。

多くのバレエダンサーが「テクニックは表現のための手段である」という趣旨の言葉を残しています。この文章は2種類の意味に解釈することができます。1つは、「テクニックが豊富であれば、表現手段も豊かになる。」というのもので、もう1つは「テクニックは、あくまで表現の手段に過ぎない。」というものです。しかし、いずれの意味にしても、テクニックの保有は議論の大前提です。

だからこそ、表現者は、たゆまぬ技術の向上と維持に努めるわけです。年齢や怪我のために、ある技術が使用不能になったら、何らかの技術で代替するんです。代替できる技術が少なくなり、表現手段が限られてきたら・・・自分の理想の踊りができなくなったとして、多くのダンサーが引退していきます。舞台に直立で立っているだけで何かを表現していると感じられるダンサーですら。

逆に言えば、ダンサーが体を使う技術の向上(なお、一定年齢の経過後は「技術の維持」になり、更に年数経過後は「技術の劣化速度の遅延」になる)を自らやめてしまった場合、表現の手段たる技術は喪失される一方ですから、評価はあからさまに下落します。というか、観客が評価する以前に、役がつかなくて舞台から消えてますわね。

「体を使った表現」という芸術は、このような構造になっているので、見せる側からすれば、表現者が獲得した技術を観客に見せない、などということは有り得ないんですよ。その技術がスーパーであればあるほど、そうです。振付家が、特定のダンサーの特定の技術を敢えてクローズアップして見せるために、わざわざ特別に演目を振付けることすらあるんです。

さて。
フィギュアスケートが「スポーツ」なのか「芸術」なのか、という議論があります。しかし、仮に「スポーツ」ではなく「芸術」にカテゴライズされたとしても、フィギュアスケートが「体を使った表現」の一類型である以上、上記と同じことです。つまり、体を使う技術は必須ですから、その技術の向上をはかることは当然です。また、見せる側からすれば、スケーターの持っている技術を見せない、などという選択は、本来的には有り得ない。

もし、この本来の姿が捻じ曲げられ、表現者が自分が有する技術を見せないという選択をせざるを得ない事態、あるいは技術の向上そのものを否定するような事態が常態化しているならば、それは何かがおかしくなっている、ということです(その「何か」とは、採点基準が筆頭に上がるんでしょうけど、これには深入りしません、というか、できません。。。)。

繰り返しますが、これはフィギュアスケートが「芸術」カテゴリーだったとしても、同じことです。「体を使った表現」である以上は、体を用いた「技術」の向上・維持とその観客への披露は、絶対的であり、否定される理由は一切ありません。

したがって、私は、フィギュアスケートの技術の評価に関する議論において、フィギュアが「スポーツ」か「芸術」かという争点の立て方をするのは、トンチンカンなものだと考えています。スポーツではなく芸術と定められたとしても、技術は変わらず、表現における最も基本的な基礎として、あるいは表現手段そのものとして、正当に評価されるべきだからです。

中途半端なので、次回に続きます。
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by koharu-annex | 2010-04-09 00:16 | 考察(フィギュアスケート含む)