もしかしてトホホ(http://blog.livedoor.jp/takurere1025/)の別館です。表現系に特化して更新します。


by koharu-annex

表現力に特化して考える~真央ちゃんの特異性

こちらは、本館の4月2日付け記事を、あらためてアップしたものです。


女子フィギュアスケート世界選手権フリーがスカパーなどで放映されていた夜中、ヨナちゃんのパフォーマンスが終わった後に、例の友から電話があったことは、以前書きました(こちら)。

その電話において・・・

友 「今、心配しているのは、未来ちゃんが金で、真央ちゃんが金を取れないかもしれないってこと

私 「可能性あるねえ。未来ちゃん、ポテンシャル高いもんねえ~

友 「そう?未来ちゃんは、完成度という点では、まだまだって感じがするけど。

私 「まだまだの点はあっても、あれは大器でしょ。まさにスター誕生というか。あの勢いが勝つってことは有り得るよ。

友 「いや、私が心配しているのはそういう話じゃなくて、変な採点方法で真央ちゃん包囲網が作られて、真央ちゃんよりずーーっと先があるのに未来ちゃんに金持ってかれて、今回もまた勝てないんだったら、真央ちゃんが可哀相すぎる!っていう話よ~

ということで、微妙に友と私との間で、観点にずれがあったことが判明(苦笑)。 

友が言ったのは感情論ではなく、ウィアー選手の発言(趣旨としては、フィギュアは政治的なスポーツで、その観点から自分は五輪ではメダルが取れないとわかっていた、というもの)や、客観的状況に照らしても、フィギュアスケート界がある種の思惑で動いている世界であることには間違いがないから、史上初めて日本男子(高橋選手)が金を取っている以上、女子にまで金を与える必要はない、という力学が働くのではないか、という懸念に基づくものです。(ウィアー選手の上記発言の続きが素晴らしく、彼が人格者であることを物語っています。どうぞ、ニコニコ動画のこちらをご覧下さい。)

根深いですよね。友の懸念を妄想と切り捨てることができないほどの、採点における違和感(世界選手権の女子についてはこちら参照)。日本スケート連盟が、改正ルールを国際スケート連盟に提案するとのことだけど(こちら)、どうなることやら。

それはさておき、友の声の向こうに、「Koharuちゃん、まさかとは思うけど、真央ちゃんの評価低い~?」、という呻きが聞こえたような気がするので(真正面から聞きにくいんだろうなあ…)、今回はその点についてちゃんと書こうかな、と。今まで、敢えて辛口に書いたこともあるけど、結論から言うと、私は真央ちゃんの表現力を、実は、評価してる。でも、ヨナちゃんの表現力の化けの皮をはいだ同じ口でそれを言うと、単なるえこひいきに思われるのが落ちなので、真正面から書くのがはばかられたわけですよ。

でもね、えこひいきと思われても、友に疑念を持たれない方が私には大事なので、今回は書くことにしました。友からお菓子と本をまた贈ってもらったし(笑)。もちろん、ご存知のとおり、私にはスケートの技術的側面や採点基準についての知識が圧倒的に不足しています。そのため、これらについては言及できませんので、あくまで表現力、なかんずくバレエや舞踊に通じる表現力に特化した記載となりますが、悪しからずご了承下さい。

さて。
私は、真央ちゃんは、「自分ではない何者か」を天然で表現できる、という能力については持ち合わせていないと思っています。高橋さん・鈴木さん・ウィアーさんの3人は、この能力の保有者だと思います。また、長洲さんにも、その可能性を感じます。(なお、私の言う表現者の能力については、過去に書いたこちらの記事をご参照下さい。)

しかし、真央ちゃんは、舞台上で(アマチュアのフィギュアの場合は試合で)、①自分自身を、②しっかりと外に向かって、表現できる、というレベルの能力はきちんと持っています。

①がヨナちゃんと、②が安藤さんと、それぞれ異なるところです。ヨナちゃんが、①自分自身を表現できないことは、過去記事に書きました(こちらこちらなど)。安藤さんは、エキシビションだけを見ると、外に向かって表現できるポテンシャルがあるように思えますが、試合ではかなりダウングレードします(あぁ、採点基準のような言葉を使ってしまった)。これは別途検討の余地ありです。

また、彼女は表現手段が豊富ですね。体が柔軟だから、様々な振付が可能だし、スパイラルのあの伸びやかなポーズは、あまりに正統派でほれぼれする。高橋さんや鈴木さんほどの、あからさまな舞踊感はないにしても、スタミナがあるから、パフォーマンスの後半でも、スピードが落ちず、かつ、振付のこなしが指先までの神経使いや首の角度にまで行き届いていて、手抜き感や隙が全く無く、見る側としては安心して「感じる」ことに集中することができる。

そして、ここからが重要ですが、真央ちゃんの有する①自分自身(自己)というのが、あまりに大きくて特殊なので、②外に向かって表現されるものも他の人とはスケールが違う、ということです。

私は、オリンピック後のこちらの記事のグループ分けで、プルシェンコさんについて、「表現力はBですが、強烈なカリスマ性でA以上の印象を残せる稀有な存在」と書いたのですが、真央ちゃんの「自己」の印象深さは、このプルシェンコさんに通じるものがあります。このような印象的なカリスマ性や自己を持っている表現者は、実は案外少なくて、とても貴重な人々です。

誰の「自己」であろうが、その内容を具体的な言葉で表現するのは難しいですが、それでは話が前に進まないので、私が感じる真央ちゃんの「自己」のいくばくかを無理やり言葉で表現してみました。

   ピュア、邪心が無い
   ノーブル、上品
   誇り高い、凛とした、強い自制心
   他者を尊重する
   他者と比べて競うのではなく自分と闘う
   競争心・闘争心が少なく逆に向上心が大きく存在する
   ただただまっすぐに自分が理想とする上を目指している
   その理想にけがれがない


これらはいずれも、世間において「良きもの」と捉えられている要素ですが、真央ちゃんの場合、どれもが比較的高度なレベルで融合していると感じます。そういう意味では俗人とはレベルが違った御仁ですね。これは彼女のお顔が、広隆寺の弥勒菩薩にそっくりだから、という理由だけでは説明がつかない。

また、彼女には、

   自分の決断・思想を貫く精神力が強靭
   思いっきり頑固


という、非常にストイックなアスリート(イチローとか藍ちゃんとか)に見られる要素も強烈に感じます。

そして彼女の意識とは関係ないんですが、受け手側として決して無視できないものを彼女は持っています。

それは、あの作り物ではない本物のお姫様オーラ。

幼少時から今までず~っと、いつも(←そう、「いつも」というところがすごいのよ)、キラキラした金粉が周りに飛んでるような、彼女が生まれながらにして持っている、あの雰囲気です。彼女の天性のアイドル性&スター性の源ですわ。

この姫オーラ、多くの女子が憧れて欲しがるものだけど、後付けで獲得できるものではありません。もちろん、高校や大学に入ってお化粧するようになったとか、熱烈な恋をしているとか、メディアに出始めたとか、環境・気持ちの変化によって後天的に「華」を得ることはあります。しかし、生まれつきのものか、環境や気持ちの持ちようで後天的に(且つたいていは一時的に)得たものか、という違いは、オーラの本質性において圧倒的に違う。

この姫オーラというのは、ことに表現者にとっては、他のものでは絶対に代替が利かない大きな力であり、まさに神様からのギフトです。もちろん役柄にもよりますが、バレエはもちろん、たいていの舞踊・舞台系における多くの演目で、極めて有利に働きます。

 ずるい?

はい、そうかもしれません。でも、仕方がないですよ。これは、ほんの極一部の選ばれた人にしか与えらないので、本来的に不公平に存在するものなんです。そもそも体を使った表現者の場合、遺伝子的に筋肉質か、脂肪がつきやすいタイプか、関節のソケットが浅いいわゆる二重関節を持っているか、ソケットが深くてどんなに柔軟をやっても180度以上の開脚ができないタイプか、というような体質・体型にまつわる要素によっても、かなりの不公平があるわけで。

とはいえ、この姫オーラタイプのライバルと競わなくてはならない人は本当に大変で、それこそ「ずるい!」と言いたくなるでしょうな。だって、努力ではどうしようもないんだもの。そういう意味では、安藤さんもヨナちゃんも、そりゃ大変ですわ。2人がそれぞれああなったのも(誤解を招く言い方だな。「王道路線というよりは、むしろ独自の表現の道を開拓せざるを得なかった」と言いましょうか)、ものすごく分かる気がする。
 
真央ちゃんの姫オーラについては、よくある姫オーラと異なる特徴があります。それは、上で述べたような真央ちゃんの「自己」と相まっているため、姫オーラの奥に、気高く且つ慈愛に満ちた女王オーラの萌芽があることです。

たいていの姫オーラはですね、「永遠のお姫様」的なものなんです。ともすれば、ぶりっ子、幼稚、勘違い、に転びそうな危険性をもっていたりする。ところが真央ちゃんのは、姫が成長して上品で風格のある女王となる姿をほうふつとさせる姫オーラ。あんなオーラを持つ女子なんて、世界中の表現者を探しても、そうそういませんよ。

ということで、真央ちゃんは、「自分ではない何者か」ではなく、自分自身を表現しているに過ぎないんだけど、他の追随を全く許さないほど彼女の「自分自身」がブリリアントな特殊性を有するため、外に表出されたもののスケールが桁違いに大きく、その結果、高い表現力を持つ選手のパフォーマンス以上の強い印象を残せる、というのが私の結論でございます。そして、このような「自己」と圧倒的な姫オーラを持つ彼女は、女性表現者としての表現の幅が極めて広い、といえる。これらに、表現手段の豊富さと、激しい振付を最後まで完璧に成し遂げられる体力と集中力があることも、あわせ考慮すると、やはり、彼女の表現力は相対的にかなり高い、といえるのであります。

ところで、真央ちゃんの特殊な自己とオーラを、演目に生かさない手はありません。その観点から言うと、「鐘」という演目はまさに真央ちゃんのもので、余人をもって代えがたいと思います。真央ちゃん自身が「鐘」にこだわったのも、意地になったというものではなく、ご本人はおそらく意識していないであろう、あの女王の萌芽と「鐘」という演目が共鳴したのではないかと思っています。

ただ。
演目は時を選ぶ、ということも事実です。

女子のフィギュアスケートは、アマチュアで活躍できる期間が極端に短く、20代半ばでベテラン選手と言われてしまう。40代でも小娘を演じられるバレエとは根本的に時間の流れが違う。そうである以上、客観的にはまだ若い20代でも、フィギュアの世界ではベテランと目される年齢で、いかにも若い子向けの演目では、「痛さ」が出る可能性がある。これは、逆に、客観的な年齢ではまだ早いと思われる演目でも、フィギュアに限れば比較的早い段階でOK、ということも意味します。しかし、演目に追いついていない背伸びした印象が、多くの場合ある種の違和感を伴う以上、私は個人的には、無理をせず、その時々の年齢に合致した演目を選択して欲しいと思っています。

ここで思い出すのが五輪。あのときは、若干、「鐘」と真央ちゃんの実年齢の齟齬が浮かび上がってしまった。あぁ、惜しい、この世界をこの子は持っているけど、ここではまだ早いという印象が出てしまった・・・と感じました。もちろん、世界選手権において、驚異の迫力でもってあの齟齬を見事に覆い隠した事実に照らせば、五輪のときもその齟齬を見せないで済んだ可能性は大いにある(この点の真央ちゃんのポテンシャルには、ただただ驚嘆するばかりです)。

でも、私は個人的には、「鐘」は真央ちゃんが引退する時にこそ合う演目だと、今でも思っています。 あの演目の、有終の美を飾る感というか、これまでの全ての出来事を神々しいものに昇華させるイメージは、別格だからです。
 
長々書きました。最後に、以前書いた文章をあらためて書いておきます。

彼女が、ここ数年、キム・ヨナちゃんと比べて表現力が劣っていると言われているならば、考えられる理由は、ただ一つ。

「スケートの技の技術が高い」から。

バレエの世界でも、ギエムやタマラ・ロホなど、飛びぬけて技術が高い人は、その有する表現力が過小評価されてしまいます。その類の被害者だな~という印象を受けています。

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by koharu-annex | 2010-04-06 00:12 | フィギュアスケート女子